正法寺古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 10:28 UTC 版)
埋葬施設・遺物
埋葬施設に対する調査は実施しておらず、副葬品も確認されていない。円筒埴輪は各トレンチから出土したが、原位置で検出されたものはない。形象埴輪は蓋(きぬがさ)・家・器種不明が確認。形象埴輪は主に3段目斜面裾の流土中より出土しており、前方部・後円部ともに墳頂部に形象埴輪が据えられていたと考えられる[3]、とする。
埴輪の時期は、仲津山古墳段階に併行する中期前葉(川西編年Ⅲ期)と考えられる[3]、とする。
後円部のトレンチで小型器台と考えられる須恵器が出土[7]。類例は国内で数点確認されているに過ぎないもので、時期はTK-73型式新段階と考えられる[3]、とする。
築造時期
埴輪および墳丘形態から中期前葉(4世紀後葉から5世紀初頭)[8]とする。出土した須恵器の時期は埴輪から想定される時期と時期差を認めざるを得ず[9]、古墳完成時に使用された物とは断定できないが、出土位置から後円部頂に供献された物が転落したものとみられる[8]、とする。
特徴と意義
本墳は海との関係を抜きにして考えることはできない。本墳は当時の矢作川の河口域に位置し、被葬者は三河湾、さらには伊勢湾の水上交通を掌握した人物と想定される。伊勢地域では本墳とほぼ同時期に精巧な船形埴輪を出土した宝塚1号墳が築造されており、伊勢湾・三河湾の両岸に築かれた両古墳は、東国へ至る交通路の安定確保を意図する畿内政権の強い影響下において成立したといえる[8]、とする。
ギャラリー
交通アクセス
- ^ a b c 「第1章 周辺環境と調査の経緯」『史跡正法寺古墳』吉良町教育委員会(2005年)
- ^ 町村合併10周年記念町誌編集委員会『吉良町誌』愛知県幡豆郡吉良町(1965年)
- ^ a b c d e f g h i 「第5章 考察」『史跡正法寺古墳』吉良町教育委員会(2005年)
- ^ 小栗鐵次郎「幡豆郡吉田町大字乙川正法寺古墳」『愛知県史蹟名勝天然記念物調査報告第十三』愛知県(1935年)
- ^ 加藤安信・松井直樹ほか『中根山遺跡』吉良町教育委員会(1989年)
- ^ 「第2章 墳丘の発掘調査」『史跡正法寺古墳』吉良町教育委員会(2005年)
- ^ 「第3章 出土遺物」『史跡正法寺古墳』吉良町教育委員会(2005年)
- ^ a b c 愛知県史編さん委員会編集『愛知県史 資料編3』愛知県(2005年)
- ^ 河内一浩「中期古墳の埴輪」『季刊考古学 第79号』雄山閣(2002年)など
- 1 正法寺古墳とは
- 2 正法寺古墳の概要
- 3 墳形と規模
- 4 埋葬施設・遺物
- 5 脚注
- 正法寺古墳のページへのリンク