御歌所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/08 04:34 UTC 版)
歴代御歌所長
- 高崎正風 - 1888年(明治21年)被仰付[7]、1912年(明治45年)在職中逝去[11]。
- 入江為守 - 1915年(大正4年)任命[13] - 1936年(昭和11年)在職中逝去[22]。
- 三条公輝 - 1936年任命、1945年(昭和20年)在職中逝去。
- 賀陽宮恒憲王 - 1945年任命、1946年(昭和21年)御歌所廃止に付き免職
御歌所寄人
- 黒川真頼 - 東京帝国大学教授、明治19年(1886年)宮内省御歌掛寄人、明治21年(1888年)宮内省御歌所寄人を拝命[23]。
- 井上通泰[24] - 井上 (1927) の講演で御歌所の官制について語った。
- 阪正臣[24] - 書家としても一流であり明治天皇御集原本を筆写したという[25]。勅任寄人としては5人目であった[5]。
- 大口鯛二[24]
- 千葉胤明[24]
- 須川信行[24] - 明治天皇御集編纂の御用中に卒去したという[20]。
- 池辺義象[26] - 須川信行の死んだ後に偶然、寄人になったという[20]。
- 佐佐木信綱[26] - 佐佐木が寄人になるには次のようなのいざござがあったという。佐佐木は山県有朋の推薦により民間歌人の代表として明治天皇御集編纂の委員に加わることになった。この委員は職制上寄人でなければならないので佐佐木を寄人にしなくてはならない。佐佐木自身の希望としては、御集編纂の委員は喜んで勤めたいが、寄人になるのは自分の立場上困るということであった。御歌所内でも議論があったが、結局、佐佐木が委員を務める間に限り寄人を兼務するということで決着した。佐佐木は明治天皇御集と昭憲皇太后御集の編纂の御用を終えた後に寄人を辞めたが、これは予定の事であったという[27]。
- 鳥野幸次[19]
- 武島又次郎[19]
- 遠山英一[19]
- 金子元臣[19]
- 加藤義清[19]
- 外山且正[28]
出典
- ^ a b c 安田寛「唱歌の作歌と御歌所人脈」『奈良教育大学紀要』第55巻第1号、2006年、129-133頁。 NAID 120001075447
- ^ a b 官報1946年3月30日皇室令第10号。
- ^ a b c 官報1907年11月1日皇室令第10号。
- ^ a b c 官報1921年10月7日皇室令第13号。
- ^ a b c d e f 井上 (1927) 6頁。
- ^ 法規分類大全第1編、官職門、官制、宮内省1、368頁。
- ^ a b 官報1888年6月8日叙任及辞令。
- ^ a b c d e 井上 (1927) 4頁。
- ^ a b 官報1897年10月2日宮内省達甲第7号。
- ^ 官報1910年12月22日皇室令第30号。
- ^ a b 官報1912年3月1日/彙報/官庁事項/官吏等薨去及死去。
- ^ 官報1914年7月20日皇室令第7号。
- ^ a b 「入江為守とは」コトバンク、2019年8月閲覧。
- ^ 官報1916年10月23日省令。
- ^ 官報1921年12月29日皇室令第19号。
- ^ 瀬畑源「『宮中・府中の別』の解体過程 : 宮内省から宮内府、宮内庁へ」『一橋社会科学』第5巻、一橋大学、2013年、1-28頁。
- ^ 井上 (1927) 。
- ^ 井上 (1927) 5-6頁。
- ^ a b c d e f g 宮内省職員録(大正15年1月1日現在)211-212頁。
- ^ a b c d e 井上 (1927) 5頁。
- ^ 井上 (1927) 4-5頁。
- ^ 官報1936年3月24日/彙報/官庁事項/官吏薨去及卒去。
- ^ 黒川真道 著『文学博士黒川真頼伝』22・23頁,黒川黒川真道,大正8
- ^ a b c d e 官報1916年10月24日叙任及辞令で肩書に御歌所寄人とある。
- ^ 井上 (1927) 26頁。同書では阪を坂と表記する。
- ^ a b 官報1917年11月17日叙任及辞令。
- ^ 井上 (1927) 15-16頁。
- ^ 宮内省職員録(昭和8年1月1日現在)304頁。
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