征清殉難九烈士 征清殉難九烈士の概要

征清殉難九烈士

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/07 13:51 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
征清殉難九烈士の碑・京都熊野若王子神社前

九烈士

漢口楽善堂
  • 藤島武彦 - 寧波で捕縛、杭州で斬首、享年26
  • 石川伍一 - 秋田県出身、天津で捕縛、銃殺(明治27年9月19日)、享年29
  • 山崎羔三郎(こうざぶろう) - 福岡県出身、金州で斬首(明治27年10月31日)、享年31
日清貿易研究所
  • 楠内友次郎 - 熊本県出身、上海で捕縛、南京で斬首、享年30
  • 福原林平 - 岡山県出身、上海で捕縛、南京で斬首、享年27
  • 藤崎秀(ひいづ) - 鹿児島県出身、金州で斬首(明治27年10月31日)、享年23
  • 鐘崎三郎 - 福岡県出身、金州で斬首(明治27年10月31日)、享年26
  • 大熊鵬 - 福岡県出身、消息不明、享年25[3][4]
  • 猪田正吉 - 福岡県出身、消息不明、享年26

経緯

日清開戦の直前、根津一は大本営参謀次長川上操六より、偵察任務に当たる軍通訳官を募る任務を受けた。当時日清商品陳列所に実習中の貿易研究所卒業生らにはかったところ、楠内友次郎・福原林平・藤崎秀・大熊鵬・猪田正吉・向野堅一と漢口楽善堂出身の藤島武彦の7名がこれに応じた[5]

明治27年9月7日[6]、楠内・福原は上海で捕縛され南京で斬首、藤島は寧波で捕縛、杭州で斬首された。

一方、鐘崎三郎、山崎羔三郎、藤崎秀,大熊鵬、猪田正吉、向野堅一ら6人は第2軍第1師団所属の陸軍通訳官となり、遼東半島を攻略する日本軍に先行して敵地に潜入する特別秘密偵察の任務を命じられた[7]

10月16日、大山巌第二軍々司令長官と同じ長門丸に乗って、宇品港を出発した。出航前、有栖川参謀総長の謁見の栄誉に浴した。

10月24日午前11時、花園口東部に上陸し、6人は軍事情報収集の任務に就いた。山崎羔三郎、鐘崎三郎は金州、復州、蓋平方面、藤崎秀は金州方面担当、大熊鵬、猪田正吉は大孤山方面、向野堅一は普蘭店・復州方面の担当であった。大熊、猪田、向野の3人は漁船から支那服を奪って支那漁師に化け、鐘崎、山崎、藤崎の3人はそれぞれ別の地点で海に飛び込み、与えられた別々の任務をこなすために暗闇の中に消えた。

しかし、敵の警戒網も厳重をきわめて隙間がなく、山崎は早くも上陸後3日目の26日に、藤崎は30日に、鐘崎は31日に、いずれも碧琉河の近くで捕まり、金州城の西門から2キロメートルの俗に殺人廠と呼ばれる死刑場で斬刑に処せられた(10月31日)。

大熊、猪田は消息不明となった。

上記8人に天津で捕われ9月19日に銃殺された石川伍一(漢口楽善堂組)を加えたのが九烈士である。

向野堅一は農民に捕らえられるも脱走し、唯一人生き延びて金州城偵察に成功、日本軍の金州城攻略に大きく貢献した。

殉節三烈士

のちに第二軍が金州城を占領した時(11月6日)、敵の文書で山崎羔三郎、鐘崎三郎、藤崎秀ら3人の壮烈な死の顛末が明らかになった[6][7][8]。遺体は向野らの努力によって発見され(明治28年2月7日)、遺骨は郷里に送られたが、金州に駐屯中の根津は北門郊外の一山頂に碑を建てて表紹慰霊し、この山を三崎山と命名した(三人の姓にいずれも崎の字がついている)[9]。三碑は三国干渉遼東半島を返還することになったため、東京高輪の泉岳寺に移された。




「征清殉難九烈士」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「征清殉難九烈士」の関連用語

征清殉難九烈士のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



征清殉難九烈士のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの征清殉難九烈士 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS