妙法村正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 13:42 UTC 版)
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文亀元年(1501年)の年紀の銘がある村正(右衛門尉村正)の刀とは、「村正」の書体がかなり違うが、基本的には右衛門尉村正と同一人物の作とされる[4]。 「村」字は、右衛門尉村正は横棒二本がほぼ並行だが、妙法村正の「村」は下の横棒が右上方向へ傾斜する[4]。 「正」字は、さらに違いが激しく、右衛門尉村正は「正」の中の二点を繋げ、第四角と第五角の繋ぎ目があまり角張らない(直角よりやや狭め〜それより広い)のに、妙法村正は「正」の中の二点を切り離し、第四角と第五角がかなり角張る(直角よりかなり狭い)[4]。 ところが、妙法村正の「永正十天」の「正」に着目すると、右衛門尉村正の「正」とほぼ同じである[4]。 したがって、12年の間に少しづつ名前の書体を変えてきたものの、年号を切る時につい昔の手癖が出てしまったのだ、と解釈される[4]。
倶利伽羅彫刻については、真偽不明だが、一説に村正本人ではなく、「草花の与三」という白銀師が彫ったもの、という伝説もある[9]。
なお、美術上では右衛門尉村正を「初代村正」と呼称する場合が多い[4][3]が、右衛門尉村正は、前記のように日蓮宗の敬虔な信徒である[1]。 一方で、古伝では初代村正は「妙台」の法名を名乗った[9](日蓮宗の男性なら法号は「日」を頭に付ける場合が多い)とされ、また昭和9年(1934年)の伊勢新聞の記事での、明治30年(1897年)ごろまで天台宗仏眼院に「隠音妙台」の墓があったとする証言[9]とはやや合致しない(もっとも古伝がただの伝承に過ぎない可能性は大いにある)。福永酔剣は、北勢(三重県北部)史の重要氏族伊勢楠木氏の系図との整合性から、右衛門尉村正は、初代村正(隠音妙台村正)ではなく三代村正だろう、としている[9]。
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