ワラキア蜂起
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その後
この蜂起は結局は失敗に終わったが、ギリシャ独立戦争の嚆矢として重要な役割を果たした。また、ワラキア、モルダヴィア両公国におけるファナリオティスによる統治に対して大きな不満をルーマニアの人々が抱いていたことが表面化したことからオスマン帝国政府はファナリオティスによる統治を廃止、これ以降、両公国の君主にはルーマニアの貴族らが着任するようになった[67]。
そしてルーマニアでは1848年に大規模な反乱を起こしたが、これは市民革命を目指したためにオスマン帝国とそれを援助したロシアによって鎮圧された。しかし、ロシアがクリミア戦争で敗れたことで両公国は自治を認められ、1860年にルーマニア公国として統一、1866年にホーエンツォレルン=ジグマリンゲン候の子であるカールが大公に即位することでルーマニアの独立が達成される[70]。
脚注
参考文献
ルーマニア史関連
- アンドレイ・オツェテァ著 鈴木四郎・鈴木学訳『ルーマニア史1』恒文社、1977年。
- アンドレイ・オツェテァ著 鈴木四郎・鈴木学訳『ルーマニア史2』恒文社、1977年。
- ジョルジュ・カステラン著 萩原直訳『ルーマニア史』白水社、1993年。ISBN 4-560-05747-8。
- マルクス著 萩原直訳『ルーマニア史ノート』大月書店、1979年。
ギリシャ史関連
- 阿部重雄著『ギリシア独立とカポディーストリアス』刀水書房、2001年。ISBN 4-88708-278-9。
- 周藤芳幸・村田奈々子共著『ギリシアを知る辞典』東京堂出版、2000年。ISBN 4-490-10523-1。
- ニコス・スボロノス著、西村六郎訳『近代ギリシア史』白水社、1988年。ISBN 4-560-05691-9。
- リチャード・クロッグ著・高久暁訳『ギリシャの歴史』創土社、2004年。ISBN 4-789-30021-8。
バルカン・東欧史関連
- 木戸蓊『世界現代史24バルカン現代史』山川出版社、1977年。ISBN 9784634422407。
- 柴宜弘著『世界史リブレット45バルカンの民族主義』山川出版社、1996年。ISBN 978-4-634-34450-1。
- 柴宜弘 編『世界各国史24バルカン史』山川出版社、1998年。ISBN 4-634-41480-5。
- 担当執筆者
- 「ナショナリズムの勃興と独立国家の形成」 佐原徹哉
- 担当執筆者
- ジョルジュ・カステラン著 山口俊章訳『バルカン歴史と現在』サイマル出版会、1994年。ISBN 4-377-11015-2。
- ジョルジュ・カステラン著 萩原直訳『叢書東欧8バルカン世界火薬庫か平和地帯か』彩流社、2000年。ISBN 4-88202-687-2。
- 南塚信吾編『叢書東欧 (1)東欧の民族と文化』彩流社、1989年。ISBN 4882021374。
- 担当執筆者
- 「ルーマニアの民族と文化」萩原直
- 担当執筆者
- 矢田俊隆編『世界各国史13東欧史』山川出版社、1977年。ISBN 4-634-41130-X。
- 担当執筆者
- 第一章 「古代と中世の東欧」
- 第五節「東欧諸国の発展」鳥山成人
- 第二章「中世末期から十八世紀後半まで」
- 第一節「オスマン帝国支配下のバルカン」永田雄三
- 第三章「近代ナショナリズムの発展」
- 第一節「バルカンの民族解放運動」直野敦
- 第一章 「古代と中世の東欧」
- 担当執筆者
注釈
- ^ ウッドハウスによれば1480年以降は属国という地位になった[3]。
- ^ なお、この時の最大版図が後の大ルーマニア主義につながる[6]。
- ^ そのため、それまで公位はヴォイェヴォドと呼ばれていたのがポスポダル(ポスポダール) (en) と呼ばれるようになった[8]。
- ^ 両公国は1711年から1800年の間に62回、公が変わったが、同じ人物が着任することが多く、公位を務めたのは25人に過ぎず、またそれはファナリオティスの家系、11家族の内のどれかに所属していた[8]。
- ^ これはロシア軍がルーマニアの人々と交渉などを行う際にフランス語を使用したことが関係している[35]。
- ^ この盟約によれば、ヴラディミレスクは人民等に武器を取らせる義務があり、貴族らはそれを支援する義務があるというものであった[44]。
- ^ ルーマニアでは新暦移行が1919 年以降であり、ルーマニア近代史では日付にはユリウス暦(旧暦)を併記するのが慣例[45][46]。
参照
- ^ 矢田 (1977)、pp.101-103
- ^ 矢田 (1977)、p.106
- ^ ウッドハウス(1997)、p.122
- ^ 矢田 (1977)、p.149
- ^ 矢田 (1977)、pp.106-107
- ^ a b 矢田 (1977)、p.119
- ^ 矢田 (1977)、pp.183-184
- ^ a b c カステラン (2000)、p.59
- ^ 木戸(1977)、pp.87-88
- ^ 南塚 (1989)、p.182
- ^ ウッドハウス(1997)、p.150
- ^ a b c 木戸(1977)、p.88
- ^ オツェテァ1 (1977)、p.265
- ^ a b カステラン (2000)、p.115
- ^ オツェテァ1 (1977)、p.266
- ^ カステラン (2000)、p.60
- ^ オツェテァ1 (1977)、pp.267-269
- ^ オツェテァ1 (1977)、p.269
- ^ オツェテァ1 (1977)、p.272
- ^ a b ウッドハウス(1997)、pp.156-157
- ^ オツェテァ 1(1977)、p.267
- ^ オツェテァ1 (1977)、pp.274-275
- ^ オツェテァ 1(1977)、pp.275-276
- ^ カステラン(1993)、p.29
- ^ a b オツェテァ 1(1977)、p.276
- ^ オツェテァ 1(1977)、pp.277-278
- ^ 南塚 (1989)、pp.182-183
- ^ オツェテァ 1(1977)、p.278
- ^ 矢田 (1977)、pp.188-189
- ^ 矢田 (1977)、pp.184-185
- ^ 矢田 (1977)、p.188
- ^ 木戸(1977)、pp.87-89
- ^ 木戸(1977)、pp.89-90
- ^ 南塚 (1989)、pp.198-199
- ^ 木戸(1977)、p.90
- ^ 木戸(1977)、pp.90-91
- ^ カステラン(1993)、pp.29-30
- ^ a b 木戸(1977)、p.91
- ^ 阿部 (2001)、p.105
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- ^ a b c 阿部 (2001)、p.100
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- ^ スボロノス(1988)、p.47
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- ^ カステラン (2000)、p.116
- ^ 周藤、村田(2000)、p.238
- ^ 木戸、伊東 (1988)、p.31
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