ヒジュラ ヒジュラの実行

ヒジュラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 10:24 UTC 版)

ヒジュラの実行

ムスリムの出発

ヒジュラの経路図。

マッカでの宣教が行き詰っており、なおかつ身の危険を感じていたムハンマドはヤスリブからの招待を受け入れた[22]。第二のアカバの誓いから数日後、ムハンマドはムスリムたちにヤスリブへ向かうよう指示した[38]

ムスリムの中で最初にヤスリブへ移住したのはアブー・サラマ英語版という男だった。彼はエチオピアに移住し、その後マッカに帰ってきていた[39][40]ウンム・サラマ英語版が語ったところによると、彼は妻であるウンム・サラマと息子であるサラマと共に移住しようとしたが、マッカを出たところでウンムの親族が彼らを追いかけ、「お前のことは、お前が決めればよい。が、妻を連れていくことを、我々が許すと思うのか」と言ってウンムと息子サラマを彼から引き離した。すると、同じくそこへやってきたアブー・サラマの親族が「サラマは我々一族のものだ」としてサラマを妻から引き離して連れ帰ったという[39][40]。両家の板挟みになったアブー・サラマは仕方なく1人で移住した[41][42][注釈 10]

ヒジュラは密かに行われていたが、のちに2代目正統カリフとなるウマル・イブン・ハッターブはカアバ神殿でクライシュ族を前にして「命の惜しくないものは私に挑戦せよ」と堂々と宣言してからマッカを去ったという[44]

こうして70人あまりのムスリムたちが数名ずつ家族単位で密かにマッカを脱出しヤスリブへの移住を遂げた[45][34][46]。通常のキャラバンなら11日で到着するところを彼らは2か月ほどかけて進み、ほぼ全員がクライシュ族の妨害にあうことなくヤスリブに到着した[34][47]。彼らはヤスリブのムスリムの家に泊まってムハンマドの到着を待った[34]

ウマルが語ったところによると、アイヤーシュ・ブン・アブー・ラビーア英語版という男はウマルと同行してヒジュラを遂げたものの、ヤスリブまで会いに来た兄弟に「お前の母は願をかけた。お前を見るまでは髪をとかさず日中でも日焼け止めを使わないと。」と告げられ、これは兄弟の策略だというウマルの忠告を無視してマッカへ戻ることを決めた。マッカが近づくと兄弟は彼を縛り上げ、見せしめとして町中を引き回したという[48][49]

ムハンマドの出発

マッカ脱出

マッカに残ったのはムハンマドとその妻サウダと娘ファーティマ、アブー・バクルとその家族、そしてアリーのみであった[50]。アブー・バクルはムハンマドに何度もヒジュラを決行する許可を求めたが、ムハンマドは「急いではいけない。おそらくアッラーはあなたに友を与えられる」と言ってすぐには出発しなかったという[51][52][53][注釈 11]。アブー・バクルは出発に備えて、砂漠の長旅に耐えられる俊足のラクダを2頭購入した[55][56]

ヒジュラは秘密裏に行われていたが噂はマッカの人々の間に広まった。ウマイヤ家のアブー・スフィヤーンを中心とするクライシュ族の有力者たちは集まって協議を行った[55][57]。協議では、ムハンマドを鎖につないで投獄して一生拘束するという案、ムハンマドをマッカから追放して二度と戻らせないという案が出たが、それぞれ、ムスリムが彼を救出しに来る可能性、追放された地で仲間を増やしてマッカを征服しに来る恐れから却下されたという[58][59]

協議の結果、クライシュ族の各家系から屈強な若者を1人ずつ暗殺者として送り、一斉にムハンマドを剣で刺して殺すという案で一致した[60][61][62][63]。これは、各氏族の代表者が一斉にムハンマドを殺すことで、上記の「血の復讐」に基づく報復の責任を分散させ、ハーシム家に報復を行わせないようにするという意図があった[55][58]

ムハンマドの暗殺は同年9月に行われることになっていたが、ムハンマドはこの計画を事前に察知した[58][64][注釈 12]アーイシャが語ったところによると、ムハンマドはアブー・バクルの家へ行き、ヒジュラを行うことを彼に告げ、アブー・バクルの娘であるアスマとアーイシャが食料を用意した。また、ムハンマドとアブー・バクルは道案内人であるアブドゥッラー・ビン・クライクトを雇い、ラクダを預けたうえで3日後にサウル山で会うことを約束した。その後、ムハンマドは、夜が来たらムハンマドのベッドで寝るよう、のちに第4代正統カリフとなるアリー・イブン・アビー・ターリブに指示した[65][64]。深夜、ムハンマドとアブー・バクルは家の裏口から抜け出し、徒歩でマッカを脱出した[65][66]

洞窟での潜伏

ムハンマドとアブー・バクルが身を潜めたサウル山の洞窟の入り口。2008年撮影。

マッカを出たムハンマドとアブー・バクルはまずマディーナとは反対側である南側、イエメン行きの道を5 kmほど進み[55]、サウル山の頂上近くにある洞窟に身を潜めた[67][68]。洞窟の入り口は身をかがめなければならないほど低くて小さかったが、洞窟内は広く、高さもあった。彼らが洞窟に身を潜めた後、アブー・バクル家の解放奴隷であるアーミル・ブン・フハイラ英語版が羊を連れて2人の足跡を消したという[55][66]

ベッドにいるのがムハンマドではなくアリーであり、ムハンマドがすでにマッカを脱出したことを知ったクライシュ族はムハンマドの首にラクダ100頭をかけ、捜索隊を出した[69][66]。なお、アリーは投獄されたがすぐに釈放された[70]

ムハンマドとアブー・バクルが洞窟に隠れている間、アーミル・ブン・フヘイヤが洞窟の近くに羊を連れてきて、絞った乳を彼らに飲ませたり、アスマが食料を持ってきたりした。また、マッカに残っていたアブー・バクルの息子であるアブドゥッラーは夜になると洞窟を訪れてマッカの様子を報告した。アブドゥッラーがマッカに戻るときは、アーミルが羊を彼の後についていかせて足跡を消した[70][71]

捜索隊は主にヤスリブへの道でムハンマドを探していたが[69]、ある一団は残された足跡をたどってサウル山に到達し、2人が隠れている洞窟の入り口までやって来た[70]。この時のことをアブー・バクルは以下のように回顧している。

頭を上げると、彼らの足が見えた。「アッラーの使徒よ、彼らが腰をかがめて中をのぞけば私たちは見つかってしまいます」と私が言うと、ムハンマドは「黙りなさい、アブー・バクル。二人の旅人にとって三人目の友はアッラーなのだ。恐れることはない」と答えられた。

—アブー・バクル[72]

また、以下に引用するクルアーンの第9章40節の一説はこの洞窟での出来事を指していると信じられている[73]

たとえ汝らが彼〔ムハンマド〕を助けなくとも、アッラーが彼を助ける。不信仰の者たちが彼を追い出し、もう一人〔アブー・バクル〕とともに二人が洞窟にいたときを思い起こせ。彼はその輩に「悲しむなかれ。アッラーは私たちとともにある」と言った。そして、アッラーは彼にサキーナ(安らぎ)を下し、彼を汝らには見えない軍勢で強化し、不信仰の者たちの言葉を最低のものとし、アッラーの言葉を至高のものとした。アッラーは比類なき強力者・叡智者である。

—クルアーン第9章40節[74]

捜索隊は洞窟の前まで来たにもかかわらず中をのぞかずに去った。後世の伝説によると、1匹の蜘蛛が入り口に巣を張り、また1羽の鳩が卵を産んで温めていたため、これらを見た捜索隊は中に誰もいないと判断して通り過ぎたという[75][76]。洞窟に潜伏してから3日目の夜、アブドゥッラーは捜索が終了したとムハンマドらに知らせた[77]。4日目には約束通り道案内人のアブドゥッラー・ビン・クライクトがラクダをサウル山に連れてきた。アスマが糧食をラクダにくくりつけた[69][76]

また、アリーはムハンマドがマッカを脱出した3日後に、ムハンマドの妻子とアブー・バクルの家族とともにマッカを脱出した[70][78]

ヤスリブへの到着

到着したムハンマドをタンバリンを叩いて迎えるムスリムの絵

ムハンマドとアブー・バクルはラクダに乗り、アーミルとアブドゥッラー・ビン・クライクトと共に4人でヤスリブへ出発した[67][79]。彼らはキャラバンが通るような人通りの多い道や有名なルートを避けて進んだという。サウル山を出発して北西のジェッダ方面へ進んだ後、内陸に戻った。マッカ北方のウスファーンを過ぎるとたびたび交易ルートと交わるようになった。ジュフファを過ぎたらクライシュ族の影響力が及ばない地域であったため、その後は本来の交易ルートでヤスリブへ向かったという[76]

9月24日(ヒジュラ暦元年3月12日月曜日)の午後、彼らはヤスリブ郊外のクバーに到着した[80][81][79]

ムハンマドの到着前、ヤスリブにはムハンマドがマッカを脱出したという情報は入っていたが、ムハンマドが洞窟で3日間潜伏していることは誰も知らなかった。ヤスリブの改宗者やマッカからの移住者たちはマッカへの道を1、2マイルほど進んだところにあるハラートと呼ばれる岩山に陣取り、ムハンマドが到着する10日以上前からそこと家とを往復して彼を待っていたという[82][83]。ムハンマドが到着した9月24日、彼らは既にハラートから家に戻っていた。しかし、ナツメヤシ畑で働いていた一人のユダヤ人がクバーに向かうムハンマド一行の姿を捉え、家の屋上から「お前たちの幸運がやってきたぞ」と叫んだ[84][82]。ムスリムたちは急いでクバーに向かい、ヤスリブに到着したムハンマドを、詩をうたったりタンバリンを打ったりして、喜びを表して迎えたという[25][85]

2人から3日遅れでマッカを出発したアリーはムハンマドが到着した2日後にヤスリブに到着した[80][86]


注釈

  1. ^ これは「第一のヒジュラ」とも呼ばれる[13]
  2. ^ この時代のアラビアにおいて、氏族からの保護を失うことは生命の安全すら保障されないことを意味していた[18]
  3. ^ ムトイムがムハンマドにジワールを与えたこと理由について嶋田 (1977)は、ムトイムがムハンマドに好感を抱いており、また、ナウファル家がハーシム家と深い血縁関係にあったためと推測している[20]
  4. ^ 620年にイスラームに改宗した6人は「我々は憎悪と遺恨のために内部分裂している。神はあなたを通して統一してくださるであろう」とムハンマドに語ったという[24]
  5. ^ 当時のアラビアの貧しい家庭には、女児が生まれると、これを間引く習慣があった[27]
  6. ^ この誓いは「婦人の誓い」や「女性の誓い」とも呼ばれる。このように呼ばれる所以について、イブン・イスハーク (2010)の訳注では不明であるとされている一方で[30]小杉 (2002)は、戦闘義務がなかった女性をも拘束する誓いという意味であるとしている[29]
  7. ^ ヤスリブでイスラームが受け入れられた理由について、小杉 (2002)は、ヤスリブにはユダヤ教徒が多く一神教に慣れていたことや、多神教徒の信仰心がマッカに比べてはるかに弱かったためであると推測している[31]
  8. ^ これまでムハンマドは啓示によってどんな迫害にも忍耐を持って耐えるよう命じられていたが、戦闘を許可する旨の啓示が下ったためこの誓いが可能になったとされる[35]
  9. ^ 後藤 (1980a)は、指導者が12人選ばれた理由について、イエス・キリスト十二使徒が意図されたとしている。指導者たちはヤスリブの改宗運動の指導的立場にあった[37]
  10. ^ 夫から引き離されたウンム・サラマは1年もの間、朝から晩まで泣き暮らす日々を送ったという。これを哀れんだ親族によって彼女は移住を許可され、息子と共に移住した[43][42]。なお、その後アブー・サラマは戦死し、ウンマ・サラマはムハンマドの妻となった[39]
  11. ^ この理由についてMuir (1858a)は、ヤスリブが彼を受け入れる準備が整い、また、彼を守るというヤスリブ側の約束が実行されるという保証を得るまで出発を延期したかったためだと推測している[54]
  12. ^ 『預言者ムハンマド伝』では天使ジブリールからの忠告があったとされている[64]

出典

  1. ^ Project, Living Arabic. “The Living Arabic Project - هجرة” (英語). livingarabic.com. 2023年10月18日閲覧。
  2. ^ معنى شرح تفسير كلمة (هجرة)”. almougem.com. 2023年10月18日閲覧。
  3. ^ المعاني : هجرة”. 2023年10月18日閲覧。
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  8. ^ 医王 2012b, p. 368.
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  10. ^ 蔀 2018, pp. 206–207.
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  28. ^ イブン・イスハーク 2010, pp. 458–459.
  29. ^ a b c d 小杉 2002, p. 88.
  30. ^ イブン・イスハーク 2010, p. 559.
  31. ^ 小杉 2002, pp. 89–90.
  32. ^ 鈴木 2007, p. 152.
  33. ^ イブン・イスハーク 2010, p. 484.
  34. ^ a b c d 佐藤 2008, p. 65.
  35. ^ 小杉 2002, p. 89.
  36. ^ イブン・イスハーク 2010, p. 472.
  37. ^ 後藤 1980a, pp. 71–72.
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  39. ^ a b c 後藤 1980b, p. 152.
  40. ^ a b イブン・イスハーク 2010, p. 503.
  41. ^ 鈴木 2007, p. 154.
  42. ^ a b イブン・イスハーク 2010, p. 504.
  43. ^ 鈴木 2007, pp. 154–155.
  44. ^ 小杉 2002, p. 94.
  45. ^ アームストロング 2017, pp. 16–17.
  46. ^ 中村 1998, p. 39.
  47. ^ Muir 1858a, p. 246.
  48. ^ 鈴木 2007, p. 155.
  49. ^ イブン・イスハーク 2011, pp. 512–514.
  50. ^ 後藤 1980b, p. 153.
  51. ^ Muir 1858a, p. 248.
  52. ^ サルチャム 2011, p. 129.
  53. ^ イブン・イスハーク 2011, p. 1.
  54. ^ Muir 1858a, pp. 248–249.
  55. ^ a b c d e 鈴木 2007, p. 156.
  56. ^ イブン・イスハーク 2011, p. 8.
  57. ^ イブン・イスハーク 2011, p. 3.
  58. ^ a b c サルチャム 2011, p. 131.
  59. ^ イブン・イスハーク 2011, pp. 4–5.
  60. ^ 嶋田 1977, p. 23.
  61. ^ アンサーリー 2011, p. 69.
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  63. ^ イブン・イスハーク 2011, p. 5.
  64. ^ a b c イブン・イスハーク 2011, p. 6.
  65. ^ a b サルチャム 2011, pp. 133–134.
  66. ^ a b c イブン・イスハーク 2011, p. 10.
  67. ^ a b Watt 1961, p. 91.
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  69. ^ a b c 鈴木 2007, p. 157.
  70. ^ a b c d サルチャム 2011, p. 134.
  71. ^ イブン・イスハーク 2011, pp. 10–11.
  72. ^ サルチャム 2011, pp. 134–135.
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  74. ^ 小杉 2002, pp. 96–97.
  75. ^ アンサーリー 2011, p. 70.
  76. ^ a b c サルチャム 2011, p. 136.
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  78. ^ 後藤 1980b, p. 155.
  79. ^ a b イブン・イスハーク 2011, p. 17.
  80. ^ a b c d 佐藤 2008, p. 66.
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  86. ^ Muir 1858b, p. 8.
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  89. ^ 佐藤 2008, p. 67.
  90. ^ a b c d 蔀 2018, p. 215.
  91. ^ 後藤 2017, p. 87.
  92. ^ a b アームストロング 2017, p. 18.
  93. ^ 小杉 1994, p. 37.


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