グレテ・ワイツ
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その後
1980年代後半までワイツは第一線で活躍した。ニューヨークシティマラソンでは1986年までの5連覇の後、1988年にも優勝し、通算9回の優勝はもちろん大会記録である[6]。1988年ソウルオリンピックでもマラソンの代表に選ばれ、開会式においてノルウェー選手団の旗手も務めた。しかし、膝の悪化に直面して、18マイル地点を過ぎた直後に棄権した。
ワイツの最後のフルマラソンは、1992年11月のニューヨークシティーマラソンで、旧友のフレッド・リボウの伴走をしたときである。これはリボウが1990年に脳腫瘍と診断されたのち、60歳の誕生日を記念しておこなわれたもので、5時間32分35秒で完走した。
その後は第一線を退いたが、ランニングと健康を伝えるための市民マラソンには出場を続けていた。また、知的発達障害者のためのスペシャルオリンピックスや、ケア・インターナショナルのボランティア活動も行っていた。
祖国ノルウェーでは、オスロのビスレット・スタディオン(ビスレットゲームズも参照)前に像が建てられ、切手の図柄にもなったほか、彼女の名前を冠した記念レースが開催されている。また数々の記録を残したニューヨークでは、ニューヨークロードランナーズクラブの後援で「グレテ・グレート・ギャロップ」ハーフマラソンが実施されている。
2005年6月、癌で闘病中であることを公表し、2011年4月19日にオスロ市内の病院で亡くなった[13]。57歳没。癌と診断された後には化学療法と放射線療法とを受けながら、毎朝トレッドミルで10km相当のランニング運動を行っていたという[14]。なお、癌に冒されている部位については本人の意思で公表されなかった[14]。
2009年8月、ワイツの長年のスポンサーであるアディダスが、ワイツが2007年に創設した癌治療基金「Aktiv mot kreft」と協力関係を結んだことが明らかにされた。これはアディダスの「グレテ・ワイツ」および「モダン・クラシック」ブランドの商品の売上から5%を基金が得るものである。これにより基金は年間5億ノルウェー・クローネを病院のトレーニングセンターやPETスキャナーへ投資することが可能となった。
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j 高橋進 1983, pp. 99–102.
- ^ 「本物!女のマラソン 30年前なら五輪優勝 ザトペックにあと4分」『朝日新聞』1979年(昭和54年)10月22日夕刊 3版 11面
- ^ a b c 高橋進 1983, pp. 111–112.
- ^ a b 高橋進 1983, pp. 137–139.
- ^ “Distance running legend Grete Waitz passes away, memorial tribute to be held on 11 May” (英語). 国際陸上競技連盟 (2011年4月19日). 2023年4月18日閲覧。
- ^ a b “Remembering Waitz on the anniversary of her ninth New York Marathon victory” (英語). 国際陸上競技連盟 (2020年11月7日). 2023年4月18日閲覧。
- ^ World Marathon Rankings for 1978 - (英語). Association of Road Racing Statisticians
- ^ World Marathon Rankings for 1979 - (英語). Association of Road Racing Statisticians
- ^ World Marathon Rankings for 1980 - (英語). Association of Road Racing Statisticians
- ^ a b 高橋進 1983, pp. 174–175.
- ^ 高橋進 1983, pp. 181–184.
- ^ a b 後藤新弥「1984年8月、ロスに集まる危険な勝負師たち」『Sports Graphic Number』No.89(1983年12月20日号)、文藝春秋、P26 - 30
- ^ グレテ・ワイツさん死去…女子マラソンで活躍 スポーツ報知 2011年4月19日閲覧
- ^ a b 徳島新聞2005年11月9日
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