アルスフの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/07 01:49 UTC 版)
後日談
中世の戦闘全般に言えることではあるが、戦闘における損害の規模を正確に特定するのは困難である。キリスト教徒側の年代記によれば、サラディン軍は32人のエミールと7,000人の兵士をこの戦いで失ったという。しかし、ムスリムの損害はもっと少なかった可能性もあり得る。アンブロワーズの言及によれば、戦後リチャード軍は戦場で数千ものムスリムの戦死者を数えたという。ベハ=アッディーンの記録によれば、ムスリム軍の死者のうち、指揮官はたった3人だけであったという。Muske(クルド人の大アミール)、Kaimaz el Adeli、Lighushの3人である。一方の十字軍は、戦死者は700人以下であったとされ、そのうち指揮官はたった1人であった。撤退するアイユーブ軍を捕えようと不用意に先回りした挙句、逆に囲まれて殺害されたフレマン人の騎士ジャメス・ド・アヴェーヌである。アンブロワーズによれば、ジャメスは殺害されるまでに1人で15人のムスリムの騎士を倒したという[48][49][50]。
アルスフでの戦いは第3回十字軍に大きな影響を与えた。アイユーブ軍は完全に崩壊したわけではなかったが、それなりの損害を被った上に撤退を強いられた。またこの戦いはムスリム世界においては非常に屈辱的な事件となり、逆に十字軍の士気は大いに高まった。現在の歴史家は、もしリチャードが自ら反撃のタイミングを図って総攻撃を指揮していたならば、この勝利はよりムスリム軍に対して効果的に影響を与えることができ、サラディンの軍勢をより長期にわたって再起不能な状態に陥らせることができたであろう、としている[51][49]。アルスフでの敗戦後、サラディンは自軍を再結集し、これまでのように小規模な散兵による攻撃を続けたが、大した効果を発揮しなかった。大規模な会戦による甚大な被害を避けたかったのであろう。アルスフでの結果により、サラディンの不敗神話は打ち崩され、リチャード王の軍事的有能さが世に知らしめられた。その後リチャードは要衝ヤッファの攻略に成功し、聖地エルサレム奪還に大きく近づいた。そしてサラディンはさらなる撤退を強いられ、南パレスチナの要塞群のうち、守りきれないと考えた砦(アシュケロン・ガザ・Blanche-Garde・ロード・ラムラ)を次々と破壊していった。その後リチャード王はen: Deir al-Balahの要塞を占領した。この要塞はサラディン直属の守備隊が駐屯していた唯一の要塞であったため、サラディン軍の士気はみるみるうちに低下していった。リチャードは一連の遠征により、サラディンから聖地の地中海沿岸部を奪還することに成功した。十字軍は占領した港を通じてヨーロッパ中から支援を受けることが可能になり、サラディンのエルサレム防衛に大きな圧力を加えることができるようになったのだった。
- ^ Jill N. Claster, Sacred Violence: The European Crusades to the Middle East, 1095-1396, (University of Toronto Press, 2009), 207.
- ^ a b Boas, p. 78
- ^ Bennett, p. 101.
- ^ a tenth or a hundredth of the Ayyubid casualties, according to the Itinerarium (trans. 2001 Archived 9 August 2019 at the Wayback Machine. Book IV Ch. XIX, p. 185)
- ^ 7,000 dead according to the Itinerarium trans. 2001 Archived 9 August 2019 at the Wayback Machine. Book IV Ch. XIX, p. 185
- ^ Gillingham, p. 187
- ^ Oman, pp. 309–310
- ^ Verbruggen, p. 234.
- ^ Nicholson, p. 241.
- ^ Baha al-Din, Part II Ch. CXVII, p. 283.
- ^ Oman, p. 309
- ^ Gillingham, p. 186.
- ^ Oman, p. 308.
- ^ Verbruggen, p. 235.
- ^ Oman, pp. 310–311.
- ^ Gillingham, p. 188.
- ^ Verbruggen, pp. 235–236.
- ^ Oman, pp. 312.
- ^ Anonymous translation of Itinerarium, Book IV Ch. XVI, p. 175
- ^ Boas, p. 78.
- ^ Boas, Adrian. "The Crusader World." 2015. Page 78.
- ^ Bennett, Matthew. "The Cambridge Illustrated Atlas of Warfare: The Middle Ages, 768-1487." Vol 1. January 26, 1996. Page 101.
- ^ Oman, p. 307.
- ^ Oman, pp. 311–312.
- ^ Verbruggen, p. 236.
- ^ Oman, p. 312.
- ^ Gillingham, p. 189.
- ^ Anonymous translation of Itinerarium, Book IV Ch. XVIII, p. 178.
- ^ a b Verbruggen, p. 237.
- ^ Oman, p. 313.
- ^ Baha al-Din, Part II Ch. CXXII, p. 290.
- ^ Oman, pp. 313–314.
- ^ a b Gillingham, p. 189
- ^ Verbruggen, pp. 236–237.
- ^ Itinerarium, Book VI Ch. IV, pp. 251–2.
- ^ Bennett, ‘Elite Participation’, pp.174-78.
- ^ Oman, p. 314.
- ^ Bennett, ‘The Battle of Arsuf’, pp.49-50.
- ^ Bennett, ‘The Battle of Arsuf’, p.50.
- ^ Gillingham, p. 190.
- ^ Oman, p. 315
- ^ a b Verbruggen, p. 238.
- ^ Baha al-Din, Part II Ch. CXXII, p. 291.
- ^ Oman, pp. 315–316
- ^ Oman, p. 316
- ^ Anonymous translation of Itinerarium, Book IV Ch. XIX, p. 182.
- ^ Oman, pp. 316–317
- ^ Baha al-Din, Part II Ch. CXXII, p. 292
- ^ a b Oman, p. 317
- ^ Ambroise, p. 121-122
- ^ Anonymous translation of Itinerarium Book IV Ch. XIX, pp. 180–181
固有名詞の分類
- アルスフの戦いのページへのリンク