宥和政策
別名:宥和
英語:appeasement
国際的な問題が生じた場合に、敵対する国家の主張やイデオロギーなどの一部を譲歩して受け入れ、平和的な紛争解決を目指す外交政策。
第一次世界大戦後、ヒトラー政権の軍備拡大をイギリスのチェンバレンなどが黙認したことや、当時のチェコスロバキアのズデーテン地方問題解決のためにミュンヘンで締結されたミュンヘン協定などが宥和政策の例とされる。ミュンヘンでの一連の動きは、ナチスドイツの拡大を招いたとされ、当時の宥和政策は非難されることが多い。
また現代では、第一次世界大戦後に行われた宥和政策は、他国に介入する際の口実になることもある。特に独裁的な政権を運営する国家への介入や先制攻撃などを行う際に使用される場合が多い。
宥和政策
(appeasement から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/16 09:33 UTC 版)
宥和政策(ゆうわせいさく、Appeasement)とは、戦争回避、あるいは実用主義などに基づいた戦略的な外交スタイルの一つの形式で、敵対国の主張に対して、相手の要求をある程度受け入れる事によって問題の解決を図ろうとすること[1]。宥和主義(ゆうわしゅぎ)とも。危機管理においては、抑止の反対概念として理解される。「宥」が常用漢字でないため、融和政策と表記されることがあるが、本来は別の意味である[2]。
- ^ ただし、「妥協政策」と記載されている歴史教科書もある。たとえば、『中学社会 歴史』(教育出版株式会社。文部省検定済教科書。中学校 社会科用。平成8年2月29日文部省検定済。平成10年1月10日印刷。平成10年1月20日発行。教科書番号 17 教出・歴史 762)p 254の本文には「そして, 1938年, オーストリアを併合し, 続いてチェコスロバキアを支配下においた。イギリスやフランスは, これを黙認する態度をとり, 孤立をおそれたソ連は,1939年, ドイツと不可侵条約を結んだ。ソ連と戦う心配のなくなったドイツは, 同年9月, 大軍でポーランドに侵攻した。イギリス, フランスも, それまでの妥協政策を捨て, ポーランドを助けてドイツに宣戦し, 第二次世界大戦が始まった。」と記載されている。
- ^ 「融和政策」は部落解放の文脈での融和運動や、民族問題での同化政策の意味で使われることがある。
- ^ a b 山上 1960, p. 133.
- ^ 山上 1960, p. 134.
- ^ 山上 1960, p. 135.
- ^ 坂井 1974, p. 185.
- ^ 関 1969, p. 218.
- ^ 関 1969, p. 204.
- ^ 本間 2021, p. 277.
- ^ 河合 2020, p. 122.
- ^ 本間 2021, p. 75.
- ^ 河合 2020, p. 123.
- ^ 河合 2020, p. 124.
- ^ 河合 2020, p. 184.
- 1 宥和政策とは
- 2 宥和政策の概要
- 3 第二次世界大戦前のドイツに対して
- 4 脚注
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