F1への進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 06:53 UTC 版)
「ジャンカルロ・ミナルディ」の記事における「F1への進出」の解説
詳細は「ミナルディ」を参照 1985年に自身のチームを順当にF1にステップアップさせた。 当初は中団を前後する形で参戦を続けたが、1991年に高価なフェラーリエンジンを積んだあたりから資金繰りが怪しくなり始めた。 1990年代に入って、世界的な不況ともあいまって中団以下の各チームが資金繰りに苦慮し始めると、ミナルディも、1994年にはスクーデリア・イタリアと合併するなど、影響にさらされるようになっていった。この頃からチームの相対的な戦闘力も低下して後方集団に埋もれ、万年テールエンダーとなっていってしまった。 1996年の終わりには、やむなくフラビオ・ブリアトーレらを含む投資家グループにチーム株式の70%を売却し、ジャンカルロ自身の持ち株比率は14.5%までに低下し、チームはブリアトーレの影響下に置かれるようになった。1997年の末、ブリティッシュ・アメリカン・タバコに転売することができずに、ブリアトーレらはミナルディから手を引く。1998年から2000年にかけ、ブリアトーレから株式を買い取ったガブリエール・ルミとともにミナルディチームを共同所有する形がしばらく続いた。 2000年になると、チームの財政状況は深刻なものとなり、この年の末に、オーストラリア人実業家のポール・ストッダートに株式の持ち分全て(14.5%か)を売却した。 これにより、チーム監督としての地位も失ったが、ジャンカルロのレースへの情熱は消えがたく、ストッダートも前オーナーでチーム創設者に対して礼を以ってあたったため、新人ドライバー育成の主任という形でチームに留まることが許された。 その後、2005年の末に、ミナルディチームがオーストリアの飲料会社レッドブルに買収されたことを契機に、F1の世界から去った。ただしモータースポーツの世界には引き続き留まり、2006年にはイタリアのGPレーシングと共にユーロ3000選手権に「Minardi Team」の名称で参戦を開始。マシンのカラーリングも1980年代にミナルディが採用していた黒と黄色のカラーリングである。さらに、2007年にはネルソン・ピケ率いるピケ・スポーツとのジョイントによりGP2へ参戦することになった。(2007年シーズン限りでジョイントを解消)
※この「F1への進出」の解説は、「ジャンカルロ・ミナルディ」の解説の一部です。
「F1への進出」を含む「ジャンカルロ・ミナルディ」の記事については、「ジャンカルロ・ミナルディ」の概要を参照ください。
- F1への進出のページへのリンク