1923年の報告書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/16 05:26 UTC 版)
「ホヴハンネス・カチャズヌニ」の記事における「1923年の報告書」の解説
カチャズヌニは1923年4月に、亡命中にブカレストで開かれたダシュナク党党会議に「ダシュナク党がなすべきことはもはやない」(Dashnaktsutiune anelik chuni ailevs) と題した批判的な報告書を提出している。アルメニア人虐殺の原因は党の失策であると主張するこの報告書は、即座に党からの叱責を浴びた。しかし、マシュー・アラム・カレンダー (Matthew Aram Callender) によって英訳されアヴェディス・ボゴス・デローニアン(英語版)によって編集されたものが、ダシュナク党の対立組織であるアルメニア慈善協会(英語版)のアルメニア情報局ニューヨーク支局から出版されたことにより、報告書はよく知られるようになった。その報告書はとらえどころのない内容だが、それは党会議が「高度に秘密かつ非公開」なものであり、会議の状況について明らかにされていることもほとんどないためである。 2007年にトルコの歴史家であるメフメト・ペリンチェク(en、アルメニア人虐殺否認論(英語版)によって有罪判決を受けた初の人物である、政治家のドーウ・ペリンチェク(トルコ語版)の息子)は、この報告書を、1927年にトビリシで出版されたロシア語版(ロシア国立図書館収蔵)を底本として全文を英語とトルコ語に翻訳した。報告書は『「アルメニア人虐殺」の噓』と題したシリーズに収められてイスタンブールで出版されたが、報告書の新たな部分はすべて恥知らずなトルコの歴史家たちがアルメニア人虐殺を攻撃するために捏造したものである、とするアルメニアの知識人も存在する。
※この「1923年の報告書」の解説は、「ホヴハンネス・カチャズヌニ」の解説の一部です。
「1923年の報告書」を含む「ホヴハンネス・カチャズヌニ」の記事については、「ホヴハンネス・カチャズヌニ」の概要を参照ください。
- 1923年の報告書のページへのリンク