1866年から1869年にかけての蜂起
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「アルカディ修道院」の記事における「1866年から1869年にかけての蜂起」の解説
流血を伴うクレタ人の反乱が頻繁に起きていたにも拘らず、1800年代まで、オスマン帝国がクレタ島を2世紀以上占領していた。島の中央部に位置する事と戦略上の要衝にあったことから、アルカディ修道院は反乱軍の司令部となった。 修道院には259人の反乱軍兵士がおり、12人から16人の革命委員会のメンバーがいた。これら反乱軍と革命団のリーダー達に加えて、オスマン帝国から逃れて保護を求める近隣集落の非武装の婦女子も修道院内に居た。 1866年11月8日、修道院は30門の大砲を備えた1万5千人のオスマン軍に包囲された。オスマン軍の司令官は典院ガヴリイル・マリナキス(Ηγούμενος Γαβριήλ)に、降伏か、修道院の破壊かを選ばせる最後通牒を送った。この最後通牒は反乱軍の発砲によって答えられた。 数日間の戦いの後、修道院の壁は薄く軽かったため突破された。オスマン軍は修道院内に侵入し、反乱軍と戦った。婦女子はオスマン軍に降伏するよりは集団自決する事を選んで火薬庫に逃げた。コンスタンディノス・ギアムプダキス(Κωνσταντίνος Γιαμπουδάκης)は火薬庫の爆発を引き起こし、これにより700人の婦女子と、数百人のトルコ兵の命が失われた。
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