高師詮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/14 16:38 UTC 版)
高 師詮(こう の もろあきら)は、南北朝時代の武将。足利氏の家臣。
注釈
- ^ 『太平記』第32巻「武蔵将監自害の事」の段[2]に「故武蔵守師直が思ひ腹の子に」とあり名前の知れない側室の子であったことがわかる。
- ^ 師詮を擁立した阿保忠実(直実)は武蔵七党丹党出身の武将で高師直配下として活躍し、『太平記』では四條畷の戦いで和田新兵衛を討ち取る様や、直義派の桃井直常軍と激突した京都四条河原での戦いにおける秋山光政との一騎打ちが描かれている(『太平記』第26巻「和田楠討死の事」[3]及び第29巻「桃井四条河原合戦の事」[4])。一方、荻野朝忠は丹波守護となった仁木頼章のもとで守護代を務めたが、康永2年/興国4年(1343年)12月、南朝に通じて反乱を起こそうと企て、山名時氏に攻められて降伏した。この結果、責任を取って仁木頼章は丹波守護職を辞し代わって山名時氏が任ぜられている(『太平記』第25巻「三宅荻野謀叛の事」[5])[6]。その後、阿保忠実同様、四條畷の戦いに高師直配下として参加している。
- ^ 「丹波・丹後・但馬三ヶ国の勢二千余騎を集め」[2]。
- ^ 一般には当時の丹波守護は仁木頼章とされ、執事職に忙殺されていた頼章に代わって師詮が実質的に丹波を支配していたのではないかとする見方がある[9]。
- ^ 『鎌倉・室町人名事典』では「荻野・県・高橋らの旧師直残党により担がれ」とあるが、『園太暦』文和2年6月12日条[10]では「高橋」は「高根」とあり、他の参考文献もそれに従っている。
- ^ 『太平記』は師詮の自害後、その首を取ろうと殺到した山名勢に対し、師詮の家臣沼田が取って引き返し、奮戦の後、師詮に覆い被さるようにして自害したことも伝えている。
出典
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