離婚・復籍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/20 10:26 UTC 版)
1902年9月、英麿は熊子と離婚して大隈家を去り、早稲田の学園に関する職も全て辞して南部家に復籍した。その経緯について、9月20日付の『報知新聞』は「不良の知人に欺かれて多額の債務を負」ったと記し、原敬(旧盛岡藩の家老職の出である)もその日記(『原敬日記』)の同年9月13日の段に、離縁のことで南部家の関係者と相談した際の詳細を書き残している。それによれば、英麿が他人の負債(2万円の金額)の保証人となったことが離縁の原因であり、新聞で報じられた内容とほぼ一致する(同時期の夏目漱石の年俸が大学・高校の教員の給与を合わせても1500円であり、2万円は莫大な金額だった)。英麿の連座による負債騒ぎは3度目で、原はこの一件の遠因を英麿の「柔弱」な性格が招いたものと評しており、「将来無頼の徒と交際を絶つ事を忠告」している。 復籍後の英麿は分家して平民となり(負債などの問題が本家に及ぶのを避けるためか)、故郷の盛岡に戻って教職に就いて暮らした。晩年、早稲田大学が理工科を設置したことを聞いた際、非常に喜んだと伝わる。 1910年(明治43年)5月14日に54歳で没し、南部家菩提寺の聖寿禅寺に葬られた。
※この「離婚・復籍」の解説は、「大隈英麿」の解説の一部です。
「離婚・復籍」を含む「大隈英麿」の記事については、「大隈英麿」の概要を参照ください。
- 離婚・復籍のページへのリンク