降伏後のルイブール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 20:43 UTC 版)
「ルイブールの戦い (1745年)」の記事における「降伏後のルイブール」の解説
降伏下で、駐屯隊は名誉降伏の特典として行進を許され、住民は持てるだけの財産を持ってフランスへ送還された。このことにニューイングランド兵は激怒した。任務の見返りとして、戦地での略奪と戦利品を約束されていたからだった。 ニューイングランド軍は6月28日、ルイブールに入った。多くの兵は帰国を望んでいたが、2000人ほどが強制的に駐屯させられ、翌年にイギリス本国から兵と交代するまで、ルイブールにとどめ置かれた。しかし、厳しい気候や不潔な住環境から病気が蔓延し、1745年から1746年の冬の駐留で死亡した兵士は561人にのぼった。ちなみにニューイングランド軍のうち、フランス軍相手に戦死した兵士は約100人で、包囲中に病死した者は30人であった。包囲中に病死した者は、気候や水の悪さ、野営の条件の悪さから来る赤痢に感染した者たちだった。 ルイブールでの勝利は本国に歓迎され、本国政府に、ニューイングランド軍の実力を知らしめた。ウォーレンは海軍少将に昇進し、ペッパーレルは準男爵に叙爵されて、ニューイングランドの新設連隊の大佐となった。ニューイングランドの民兵たちにルイブールを奪われた フランスは呆然とし、1746年に、ダンヴィユ公爵の遠征を試みたが失敗に終わった。 1748年、ニューイングランドの行政官たちは、アーヘンの和約により、ルイブールがフランスに返還されると知って憤慨した。1749年、イギリスはルイブールと均衡を取るため、ノバスコシアにハリファックスに軍港を築いた。その後、フレンチ・インディアン戦争が勃発し、ジェフリー・アマースト率いるイギリス軍が、1758年に、再びルイブールを包囲して勝利したのち、この城塞を破壊した。この勝利により、イギリス軍に翌年のケベック攻撃への道が開けた。
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