長府藩との不和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 03:22 UTC 版)
寛永15年(1638年)6月15日、就隆は初めて下松の館邸に入り、6月末から7月上旬にかけて萩で秀就に面会し、8月には長府で秀元と面会した。更に同年12月には秀元が参勤の途中で下松に立ち寄って就隆に会うなど、この時期の下松藩と長府藩の関係は穏やかであった。 しかし寛永17年(1640年)春、就隆に嫌気が差した正室・松菊子が秀元の屋敷へ立ち退き、そのまま離縁するよう要求する事件が発生。以前から就隆と松菊子の不仲を案じていた秀就は児玉元恒と福間就辰を秀元の屋敷に派遣して事情を問い質すと共に、正室の松菊子から離縁を申し渡せば就隆の面目が潰れるため、秀元にも松菊子の説得を依頼した。 寛永元年(1624年)、再び離縁騒動が起こった際には説得に応じた松菊子だったが、この時は断固として説得を受け入れず、「今度こそは死を以ても断る」とまで主張したため、秀元は説得を諦め、離縁するほかないと秀就へ伝えた。しかし、亡き輝元が取り決めた就隆と松菊子の縁組を離縁したくない秀就は引き続きの説得を秀元に依頼すると共に、国司就正と福間就辰を派遣して説得を試み、更には松菊子に銀100枚を贈って秀元と共に懸命な説得を続けたが、寛永19年(1643年)には離縁が決定した。寛永11年(1634年)の独立騒動以降、連携を深めていた就隆と秀元はこの離縁騒動によって不和となってしまった。
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