毛利就隆
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毛利 就隆(もうり なりたか)は、江戸時代前期の大名。周防国下松藩・徳山藩初代藩主。就隆系毛利家初代。毛利輝元の次男で、母は児玉元良の娘・清泰院。正室は長府藩主・毛利秀元の娘・松菊子、継室は中川重政の娘・禅海院。
- ^ 分知されたのは元和7年(1617年)だったが、寛永11年(1634年)までは「内証分知」で、分知が正式に将軍に認知されていなかった。なお、分知の打渡坪付は萩藩の当職を務めた井原元以から、就隆の傅役である粟屋元相に宛てられている。
- ^ 桂元綱は武に秀でて国元の仕置きを担当し、神村元種は知に優れて専ら江戸での活動を担当した。この2人は就隆の傅役の粟屋元相の内申により、就隆が窮屈に思うような人柄の人物として選ばれたとされる。
- ^ 富海村は元々、萩藩永代家老の福原広俊の知行地であった。そのため、輝元と秀就は就隆の領地替えを許可した翌日に広俊に詫びている。
- ^ 『毛利家文書』第1265号、寛永元年(1624年)10月14日付、毛利就隆起請文。
- ^ この時期の秀元は秀就と不和となっており、萩藩とは別に直接幕府との密接な関係を築きたかったためと考えられている。
- ^ 寛永8年(1631年)に毛利秀元の四女・長菊子が、永井尚政の嫡男・尚征と婚姻している。
- ^ 秀元は慶長7年(1602年)、慶長11年(1606年)、慶長12年(1607年)に普請役を務めたが、秀就の後見として在江戸となると、3度の普請の功労により、慶長13年(1608年)の駿府城再普請以降は普請役の分担を免除されていた。就隆も慶長16年(1611年)に長門国萩へ帰国する秀就に代わり証人として在江戸となると、秀元同様に普請役の分担を免除された。
- ^ 下松藩は萩藩の支藩であったため、萩藩主の秀就を通して申請され、幕府からの許可も秀就を経由して就隆へ届けられた。幕府からの許可が下りたことを就隆に伝える同年6月30日の秀就の書状からは、秀就も許可が下りたことを喜んでいる様子が窺える。この後、就隆は老中の阿部忠秋に御礼として茶を贈った。
- ^ 時鐘が設置された一帯は現在「鐘楼町」と呼ばれ、「旧藩鐘楼跡」の石碑が残されている。
- ^ 『徳山市史 上』681頁。
- ^ 『下松市史 通史編』269頁。
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