那須氏重臣として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/21 09:24 UTC 版)
資胤との戦いにいずれも敗れた大関氏・大田原氏は、永禄11年(1568年)、資胤と和睦。高増は剃髪し主家に反抗した罪を謝した。その後は那須七騎の筆頭的な人物として主家を支え、那須資晴の代には那須氏における最有力者として権勢を誇った。天正4年(1576年)、居城を白旗城から黒羽城に移した。天正6年(1578年)、次男・清増に家督を譲ったが実権は握り続けた。 天正13年(1585年)3月、主君・那須資晴と共に薄葉ヶ原の戦いにて塩谷義綱・宇都宮国綱連合軍を打ち破り、大関勢は多くの首級を挙げた。同年12月には主君・資晴の了承を得て千本資俊・資政親子を謀殺し、千本氏の遺領の一部を弟である福原資孝・大田原綱清らと分割し、実家である茂木氏に戻されていた資俊の養子・千本義隆に千本氏の家督を継がせた。また、同年末から翌天正14年(1586年)1月にかけて、こちらも資晴の了承を得て、次男・清増を伊王野資信の所領に攻めこませ、清増が勝利したことにより講和の条件として伊王野領の東郷を割譲させるなど、専断的な行動も目立った。
※この「那須氏重臣として」の解説は、「大関高増」の解説の一部です。
「那須氏重臣として」を含む「大関高増」の記事については、「大関高増」の概要を参照ください。
- 那須氏重臣としてのページへのリンク