遼河平原の作戦(遼東半島全域の占領)
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「日清戦争」の記事における「遼河平原の作戦(遼東半島全域の占領)」の解説
2度目の海城防衛戦が終わった1月下旬から、第一軍司令部と大本営の間で、新作戦を巡る駆引きが生じた。前者は、遼陽と営口付近の清軍掃討を求めており、後者は、その作戦が直隷決戦を妨げかねない、と拒否していた。最終的に両者の譲歩により、掃討作戦の範囲を縮小して3月上旬に作戦を完了することが決まった。3月2日、第五師団は、前衛が鞍山站に進出したものの、すでに清軍が撤退しており、撃破できなかった。三方を包囲されていた海城の第三師団は、2月28日死傷者124人を出しながら主力部隊が北方に進撃し、3月2日鞍山站に進出した。4日、合流した第三・第五師団が牛荘を攻撃し、退路を断たれた清軍と市街戦になったものの、翌日午前1時頃までに掃討戦が終わった。 2月21日、太平山の戦闘で第一師団(第二軍)がダメージを負っていた(戦死29人、負傷285人、凍傷4,188人)。3月4日、再び清軍が動いたものの、第一師団の反撃で後退した。6日、第一師団は、追撃戦に移り、翌7日、抵抗をほとんど受けることなく、営口を占領した(西洋列強の領事館と外国人居留地があるため、両軍とも市街戦に消極的)。9日、日清戦争最大の三箇師団が参加し、遼河対岸の渡河地点田荘台を攻撃した(清軍2万人、砲40門)。一時間ほどの砲撃戦で戦況の帰趨(きすう)が決まり、田荘台の攻略に成功した。しかし、攻略直後に第一軍司令部は、全軍撤退と清軍の反攻拠点にならないよう「田荘台焼夷」とを命じ、全市街を焼き払わせた。 なお作戦完了により、第五師団と後備諸隊が西から営口、牛荘、鞍山站、鳳凰城、九連城までの広大な地域の守備にあたり、残りの六箇師団と臨時第七師団(屯田兵団の再編)で直隷決戦の準備が始まった。3月16日、参謀総長小松宮彰仁親王陸軍大将が征清大総督に任じられ、26日、第二軍司令部が大本営の新作戦命令を受領した。その後、山海関東方の洋河口への上陸準備のため、近衛師団と第四師団が広島から遼東半島に移動した(後記の通り当時、下関で講和交渉が行われており、直隷決戦の具体的準備は、日本側の大きな切り札であった)。
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