連合軍の情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/07 17:33 UTC 版)
「ピアチェンツァの戦い」の記事における「連合軍の情勢」の解説
オーストリア軍とサルデーニャ王国軍が別行動をとり、サルデーニャ軍がバッシニャーナの戦いで敗れると、フランス=スペイン連合軍は次なる行動を模索した。スペインはトリノかミラノを占領しようとしたが、フランスがサルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ3世との交渉に入ったため選択肢は実質的には後者しかなかった。そのため、ガージェ伯爵(英語版)率いるスペイン軍は1745年11月28日にロンバルディアへの侵攻を始めた。オーストリア軍の指揮官ヨーゼフ・ヴェンツェル・フォン・リヒテンシュタインは人数不足もあり自軍では対抗し得ないと考えて撤退、ミラノは抵抗せずに降伏した。年末にはロンバルディアのほとんどがスペインの手に落ちた。 1746年のはじめの時点では、連合軍はマントヴァ以外のロンバルディア全体、およびサルデーニャ王国の大陸部にあたるサヴォイア公領の約5分の4を占領していた。フランス宮廷はカルロ・エマヌエーレ3世と交渉を始めて彼をオーストリアとの同盟から脱落させようとした。同時にマイユボワ元帥はアレッサンドリアを包囲していた。全ての情勢は、スペインのフェリペ王子がその新しい領地たるパルマ公国を確保していたように見えた。
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