近世の山陰街道の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 01:11 UTC 版)
京の七口の一つとされる丹波口を起点として、樫原を経由し老の坂を越えて丹波国に入り、亀岡、園部、三和を経て福知山に達し、夜久野を経て但馬国へと繋がっている。 1876年(明治9年)に、丹波国天田郡と丹後国が豊岡県から編入され、ほぼ現在の形になった京都府内を縦貫する道路整備が課題となる中、1881年(明治14年)に府会は京都・宮津間の縦貫車道の開削を議決した。 この事業は、全国で初めて獲得した国庫補助金や沿道住民の金銭面・労力面の支援のもと、1889年(明治22年)に完成し、それまで2泊3日を要した京都・宮津間を15時間で結ぶことが出来るようになった。 この京都・宮津間道路の築造に尽力したのは、第3代京都府知事である北垣国道と、工部大学校を卒業した田辺朔郎であり、彼らはこの道路の築造の後、琵琶湖疏水を完成に導いた。
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