農村の騒乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 15:16 UTC 版)
農民の経済はすさまじい状態だったが、統一した指導者もなく、各運動体はそれぞれの目標に向かっていた。騒乱は年間を通じて拡大し、初夏と秋に隆盛になり、11月に頂点に達した。小作人は小作料の低減を求め、作男は賃上げを、土地管理人は所有地拡大を求めた。土地の強奪(時に暴力や焼き打ちを伴う)や略奪、森林での違法な狩猟と伐採などが行われた。サマーラでは農民が自分たちの共和国を作り、政府軍に鎮圧されるまで違法な伐採と分配を行っていた。行動に現れる憎悪の程度は農民の状態と直接的に関連があり、グロドノとカウナス、ミンスク近郊といった幾分状況に恵まれた地域ではほとんど破壊活動がなかった一方、リヴォニヤとクールラントの無産大衆は襲撃と焼き打ちを行った。全体として、軍隊の投入が必要となった騒乱が3,228件、地主は計2,900万ルーブリの損害を被った。 ロシアの急進的な政党はこうした農村の騒乱に急速に浸透して行った。5月の全露農民連合に繋がる、農民の活動を組織・調整する協議会結成の動きが起こっていた。この協議会は地域代表からなり、社会革命党と緊密な関係があったが、現実的で首尾一貫した要求を打ち出せなかった。 1905年の事件後、農村の騒乱事件は1906年に再発し、1908年に終息した。政府が農民側に譲歩したことによって、農民による土地の再分配を政府が支持したと捉えられ、土地管理人や「農民でない」地主を追い出す襲撃が起きた。農民は全国的な土地再分配がすぐにでも行われると考え、既定のことのように捉えた。
※この「農村の騒乱」の解説は、「ロシア第一革命」の解説の一部です。
「農村の騒乱」を含む「ロシア第一革命」の記事については、「ロシア第一革命」の概要を参照ください。
- 農村の騒乱のページへのリンク