轟先生
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『轟先生』(とどろきせんせい)は、秋好馨による日本の漫画である。
注釈
- ^ 清水勲は、『毎日新聞』の「フクちゃん」・『朝日新聞』の「サザエさん」と並んで一時代を築いた漫画、としている[1]。
- ^ 昭和17年(1942年)[4]、1943年(昭和18年)[5]とする資料もある。
- ^ 同年2月1日から1955年(昭和30年)5月3日の間は、これに入れ替わって『おトラさん』(西川辰美)が連載された[6]。
- ^ このとき、連載回数の通し番号を「1」に戻している。
- ^ 同年2月28日以降、病気により休載。11月30日に正式に連載終了の告知がされ、孫のワタルを従えた轟先生が、作者の手を握り「ごくろう」とねぎらう書き下ろしカットが掲載された[7]。
- ^ その場合は4コマ漫画形式ではなく、見開きもののショートコミックなどになっている。
- ^ 初期編では女子校だったが、のちに共学の学校として描かれている。
- ^ 清水勲は「国語」としている[13]が、作者の秋好は「元々は何でも教えていたが、映画化された際に「数学教師」と設定されたので、数学の先生ということになっている」旨の発言をしている[14]。
- ^ ただし20時枠の番組が不定時間であるため、曜日によって異なっていた[16]
- ^ 名義は当初は「大黒ブドー酒」だったが、後に「オーシャンウヰスキー」に変更された。
出典
- ^ 四コマ漫画 & 2009年, p. 108.
- ^ a b 漫画家人名事典 & 2003年, p. 12.
- ^ 「「轟先生」の秋好馨さん死去 本紙連載25年」、読売新聞1989年3月26日付朝刊(東京本社版)、31頁
- ^ 四コマ漫画 & 2009年, p. 98・106.
- ^ 東文研アーカイブDB
- ^ 「次の連載漫画 おトラさん あすから登場 「轟先生」は当分休載 」、読売新聞1954年1月31日付朝刊(東京本社版)、7頁
- ^ 「轟先生さようなら 孤独な作業 励まされ24年 2回の手術機会に引退」、読売新聞1973年11月30日付夕刊(東京本社版)、7頁
- ^ 「「轟先生」の秋好馨さん死去 本紙連載25年」、読売新聞1989年3月26日付朝刊(東京本社版)、31頁
- ^ a b 「編集手帳」、読売新聞1989年3月27日付朝刊(東京本社版)、1頁
- ^ 長谷川町子著『長谷川町子私の人生 : 漫画、家族、好きなこと』、2023年、朝日新聞出版、169頁(初出:『月刊読売』1951年(昭和26年)4月15日号「笑いの泉、大いに湧く」)
- ^ a b c 秋好馨「ファンのみなさんへ / 連載漫画・轟先生の全登場人物 名前、職業、性格などを紹介して下さい」、読売新聞1955年11月23日付朝刊(東京本社版)、8頁
- ^ 秋好馨「轟先生あす新学期から朝刊にお目見え 皆さんお早う」、読売新聞1951年8月31日付朝刊(東京本社版)、2頁
- ^ 四コマ漫画 & 2009年, p. 106.
- ^ 長谷川町子著『長谷川町子私の人生 : 漫画、家族、好きなこと』、2023年、朝日新聞出版、172頁(初出:『月刊読売』1951年(昭和26年)4月15日号「笑いの泉、大いに湧く」)
- ^ 読売新聞1964年6月14日付朝刊(東京本社版)、15頁
- ^ 日本テレビ放送網株式会社社史編纂室 編『大衆とともに25年 沿革史』日本テレビ放送網、1978年8月28日、424 - 425頁。NDLJP:11954641/228。
- ^ 日本放送協会編『放送五十年史』、1977年、日本放送出版協会、506頁
- ^ 日本テレビ編『日テレドラマ半世紀』、2005年、日本テレビ放送網、22頁
- ^ 『北日本新聞』1959年4月13日 - 4月18日付各朝刊、テレビ欄。
轟先生(とどろきせんせい)
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