転落と末路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 06:26 UTC 版)
「ヨハン・フリードリヒ・ストルーエンセ」の記事における「転落と末路」の解説
1771年の冬、事態は最悪の状態に陥っていた。自らを伯爵に叙任したストルーエンセは、自らのやりたいかぎり放蕩と暴虐を尽くし、王妃をも人の前で侮辱した。 王、王妃、ストルーエンセとブラントは、宮廷を伴って1771年の夏をコペンハーゲンの北にあるヒルシュホルム宮殿で過ごした。7月7日、王妃は王女ルイーセ・アウグスタを産んだ。国内の全ての教会で、王女生誕を祝うテ・デウムを歌うことが命じられたが、王女が実はストルーエンセの子であると広く信じられていたため、人々はみな通常のミサが終わるとテ・デウムを歌うことなく席を立って教会を去ってしまった。 11月19日、宮廷はコペンハーゲンのすぐ西にあるフレゼデリクスボー宮殿に移った。夏以来高まる一方であったストルーエンセに対する反発は、遂に彼に対する陰謀として結実しようとしていた。この陰謀の首謀者となったのはランツァウ・アシェブルグたちであり、そして王太后ユリアナ・マリアの名を借りていた。ユリアナ・マリアはこの陰謀によって継子である王から実権を取り上げ、以後何年にもわたって自らと王の地位の安泰を維持した。 宮廷は、1772年1月8日、クリスチャンスボー城にもどった。同月16日には年初の仮面舞踏会が王立劇場で行われた。17日の早朝、ストルーエンセ、ブラントと王妃カロリーネ・マティルデはそれぞれの寝室で逮捕された。解放され、黄金の馬車に乗せられてコペンハーゲン中を引き回された王は、人々の歓喜を以て迎えられた。ストルーエンセの主な逮捕理由は、王法(Kongelov)に反して王の権力を強奪した、というものであった。ストルーエンセは自身の弁護にかなり奮闘した。また当初は王妃が断罪されることはないであろうと考えて、王妃との関係が法に触れるものではないと主張した。しかし、王妃もまた囚人としてクロンボー城に拘束されていることを知ると、見せかけの勇気も消え去り、王妃を裏切る言動をとるようになった。一方の王妃は、最後までストルーエンセをかばったという。 1772年4月25日、ストルーエンセとブラントは、右手を切り落とした上で断頭、遺体は四つ裂きという刑を宣告された。ストルーエンセの死刑は不可避であった。彼の罪は不敬罪と王権の強奪であり、いずれも王法の2条と26条によって断頭罪にあたるとされていた。ストルーエンセはカンストレットで刑執行までの数日をすごした。4月28日、ストルーエンセとブラントは処刑された。ブラントが先だった。
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