趙佗の治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 09:23 UTC 版)
紀元前202年、劉邦が漢を建国し、中原を初め項羽の残軍勢力を平定した。この時中原は長年の兵乱により民衆の生活が困窮しており、経済的立て直しが優先されたため、南越国に対し軍事的な行動がとられなかった。紀元前196年、劉邦は大夫陸賈を南越に派遣し、趙佗の帰順を迫った。陸賈の説得の結果、趙佗は劉邦の南越王印綬を受け、漢に臣服し、南越国は漢の冊封体制に組み込まれることとなった。これ以降南越国と漢朝は相互に使者を派遣し、交易を行なうようになる。劉邦は平和的に趙佗を帰順させることに成功し、南越国が漢の敵対勢力となることを未然に防止した。 紀元前195年、劉邦が崩じると劉邦の正室である呂后が朝政を執るようになり陸賈が引退したため、趙佗との関係が悪化した。呂后は南越国境地帯に対し、鉄を初めとする物資の南越への輸出を禁止した。その動きに対し趙佗は呂后が漢内部の郡国で南越と国境を接する長沙国と同盟を結び南越国を併合しようとしていると判断し、漢朝の冊封体制からの離脱を表明して自ら「南越武帝」と皇帝を称し、また長沙国の国境の数県を攻撃している。呂后は隆慮侯・周竈を総大将として南越に遠征させたが、高温多湿の気候に阻まれ失敗した。この時期佗憑は献上品を利用した外交を展開して近隣の閩越、甌越(西甌)と駱越を帰属させることに成功し、南越国の最大版図を確立した。また皇帝の名称で命令を発し、漢との対立姿勢を明確化させた。 紀元前179年、呂后が崩じ文帝劉恒が即位すると、漢は南越への軍事行動を停止して丞相陳平の建言に従って懐柔策に転じた。文帝は趙佗の祖先の墓地を整備し、墓守を置いて毎年の祭祀を行なわせたり、趙佗の兄弟に対しても官職と財物を下賜するなどして再度趙佗帰順工作を行なわせ、高祖劉邦の時代に南越との交渉に当たった陸賈を復職させ再度南越へ派遣して趙佗を説得させた結果、趙佗はついに帝号を廃し漢への帰順を表明し、再び「南越王」を自称するようになった。このときから景帝の時代に至るまで趙佗は対外的には漢朝臣下を称し、毎年春秋には使者を長安に派遣し皇帝の朝見を受けるようになった。しかし南越国内では帝号が依然として使用されていた。
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