谷口村分村から町村制施行まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 09:27 UTC 版)
「伊集院町下谷口」の記事における「谷口村分村から町村制施行まで」の解説
下谷口という地名は江戸時代より見え、薩摩国日置郡伊集院郷(外城)のうちであった。「元禄郷帳」及び「天保郷帳」には「谷口村」とあるが、「薩藩政要録」及び「旧高旧領取調帳」では下谷口村と上谷口村(現在の鹿児島市上谷口町にあたる)に分かれており、その間に分村したことが分かる。 「伊集院由緒記」には「上谷口村、下谷口村、右二カ村前代谷口村と申す一カ村にて、上下に相分り候由。何年間に相分り為申訳、相知不申候」と記されており谷口村が上下に分けられた年間は不明であるが、時期は江戸時代初期であると推測されている。下谷口村の村高は「旧高旧領取調帳」では1,128石余であった。 村域の北方には薩摩街道が通り、南方にある台地には地頭仮屋があり、周囲には麓集落が形成されていた。しかし宝永6年に御仮屋は苗代川(現在の東市来町美山にあたる)に移されたとされている。
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