聖ミケーレ砦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 03:10 UTC 版)
「マルタ包囲戦 (1565年)」の記事における「聖ミケーレ砦」の解説
7月15日、ムスタファはセングレアのある岬に対する攻撃を指示した。まずシベラス山からグランド・ハーバーへ横切る100隻の小船舶隊が、海と接する聖ミケーレ砦を攻撃し、その間に岬に対する攻撃を計画した。 マルタ側にとって幸運なことに、オスマン側からの脱走者がこの岬に対する計画を吐き、知るところとなった。この作戦により余裕が出来た首都側はその間に城壁や砦を修復した。救援隊が浮き橋を横断して聖ミケーレ砦へ渡ることができたため、オスマン側の攻撃は失敗した。 オスマン側は、セングレアとビルグを環状に囲み、全体の一部にあたる65台の攻城用大砲で、長時間首都を砲撃した。ムスタファはこの砲撃で首都の堡塁が広範囲に破壊されたのを確認してから8月7日に第三次総攻撃を命じた。この時は聖ミケーレ砦とビルグそのものに対しての攻撃を命令した。この結果オスマン側は首都の防壁を突破し、包囲戦は終了したかに見えたが、9月7日にシチリアからの援軍が上陸、オスマン側は撤退した。騎兵隊司令官ヴィンチェンツォ・アナスタージは、傷病人の残された野戦病院を攻撃し大半を虐殺した。
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