織田家の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 03:41 UTC 版)
孝恩寺が織田軍と共に来援したときには、すでに一族の首は石川郡倉部浜に晒されており、援軍は遅きに失した。もはや畠山家も滅亡しており、信長に仕えて報復の機会を待つことになった。 天正6年(1578年)8月、孝恩寺は自ら兵500を集めて穴水城を奪取し、上杉家臣の当時七尾城主であった鯵坂長実や、織田家に属した神保氏張らと結び、遊佐氏らに対抗した。仇である遊佐らと戦を繰り返し、神保氏張らと共に能登・越中を転戦した。遊佐・温井らによって七尾城の鯵坂が追放されると、柴田勝家に近づき、前田利家・佐久間盛政らとともに遊佐・温井らを攻めて、逐電した遊佐を追撃し、討ち取ることに成功した。能登が前田利家に与えられると、土肥親真らと共にその与力となった。 天正8年(1580年)1月10日、連龍に改名する。同年9月1日(7月23日)、信長から所領を安堵された。 天正10年(1582年)の柴田勢による魚津城攻めにも従軍、一族の長景連が上杉方に属したため、これを撃破している。
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