結婚と死亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 05:41 UTC 版)
1842年9月28日に最後の上訴ののち、コルトは絞首刑判決を言い渡され、ニュー・ヨーク・シティーの悪名高い刑務所「墓場(The Tombs)」に移送された。判決は1842年11月14日に執行される予定であった。コルトは、自分が絞首刑の日の午前にキャロライン・ヘンショーと結婚することを求めた。在監中に、コルトは独房で贅沢な暮らしをし、毎日、友人ら家族らの訪問を受け、キューバの葉巻を吸い、わらの山ででなく実際のベッドで眠り、中に絹のドレッシング・ガウンとシールスキンのオーバーコートを着て刑務所の敷地を毎日歩いた。独房には、最新の長編小説、カナリアのはいったとりかご、そして新鮮な花が毎日ヘンショーによってもたらされた。彼は地元のホテルからの食事をとり、たとえば、トーストにのせたウズラ、猟鳥肉のパテ、リード・バード(reed birds)、そしてズアオホオジロ(ortolans)である。彼を女装して脱獄させようとする試みが数回なされたが、しかしこれらの試みはすべて失敗した。ある医師が雇われたが、彼は自分はコルトの首は太いから絞首刑の絞扼は不可能であると信じているから、もし遺体が長く吊り下げられないならコルトを生き返らせられると主張した。コルトの友人らはその医師をシェークスピア・ホテルに泊まらせ、絞首刑の予定日午前に蘇生のために「墓場」から遺体をそこに運ぶ計画であった。 1842年11月14日の午前、コルトとヘンショーは、刑務所で、監督教会聖職者ヘンリー・アンソン師(Rev Henry Anthon)の導き、証人はサミュエル・コルトおよびジョン・ハワード・ペーンで、結婚した式ののち、死刑執行の数時間前に「墓場」で火災が発生した。火事が消えたのち、コルトの遺体が独房から見つかった。彼は、家族によって密かに持ち込まれたと信じられる、折りたたみナイフ(clasp knife)で心臓を刺していた。彼の遺体はアンソン師によって引き取られ、聖マルコ聖堂の墓地(churchyard of St. Mark's Church in-the-Bowery)に埋葬された。
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