篠崎スパイ事件
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篠崎スパイ事件(しのざきスパイじけん)または篠崎事件は、1940年9月に、イギリスの植民地のシンガポールで、当時在シンガポール日本総領事館の報道補佐官として活動していた外務省情報部嘱託の篠崎護が、英国砲兵隊の准尉からシンガポールの防衛に関する軍事機密を聞き出し、また英国陸軍の移動に関する報告書を入手するなどしたとして公職守秘法違反容疑で英国海峡植民地警察当局に逮捕され、同年10-12月に行われた裁判の結果、一部の容疑を除いて有罪を宣告され、禁固3年と1,000ドルの罰金刑または軽禁固6カ月に処せられた事件。[1]
- ^ この記事の主な出典は、Bridges (1986)、篠崎 (1981)、篠崎 (1976, pp. 1–9)、The Straits Times & 1941-02-06-The Straits Times & 1940-09-22および南洋商報 & 1941-02-06-南洋商報 & 1940-09-22
- ^ a b c Bridges 1986, p. 23.
- ^ 1937年10月1日時点で駐シンガポール日本総領事館が行った、シンガポール在住日本人の職業別人口調査によると、総数3,973人のうち、漁業労働者とその家族は1,407人、同じく会社・商店従業員等820人、理髪業158人、撮影業は52人(南洋商報 & 1940-10-02)。また医師・歯科医師など医療関係者とその家族(118人)の割合が高いことが特徴として指摘されていた(同)。調査当時、シンガポール在住日本人の人口は、マラヤ在住日本人の約半数を占めていた(同)。
- ^ a b 篠崎 1978a, p. 54.
- ^ シンガポール日本人会・史蹟史料部 2004, p. 170.
- ^ シンガポール日本人会・史蹟史料部 (2004, p. 170)では、『南洋の50年』からの引用として、所用で中央警察に出頭し、英氏と二言三言話しただけで、チャンド氏(編注:不詳)が返事もしないうちに全身的な痙攣に襲われて倒れ、医師が駆けつけたときには既に死亡しており、病因が判明せず病院で解剖した結果心臓麻痺と発表された、としている。
- ^ サイレンバーグ (1988, pp. 66–76)。同書は、シンガポールにおける日本人によるスパイ活動の事例として、下記を挙げている。
1941年8月にカメロン高原のタナー・ラータにあった日本人の写真館はジャングルの道路状況を調べていた(サイレンバーグ 1988, pp. 66–67)。
日本軍によるシンガポール占領の1ヶ月後、YMCAにあった憲兵隊本部で会った日本軍将校の1人は、シンガポールで有名な写真技師だった(サイレンバーグ 1988, pp. 69, 78)。
1938年12月初め、ジャワのバンドン行きオランダ領インド航空機内で、6人ほどの日本人「学生」が離陸直後にシンガポールの外港の島々をスケッチし始め、隣席の欧州人乗客(のち義勇軍の陸軍中佐と判明)が彼等を監視していた(サイレンバーグ 1988, pp. 68–69)。
ポンゴールの釣り堀の日本人経営者が英軍のカタリーナ偵察機を監視していた(サイレンバーグ 1988, pp. 69)。
アレクサンドラ路(Google Maps – アレクサンドラ路 (Map). Cartography by Google, Inc. Google, Inc. 2016年4月24日閲覧。)との交差点近くのタンリン路に隣接する丘に日本人ゴルフ・クラブの建物(Google Maps – 日本ゴルフクラブ旧跡・1988年現在のフェニックス・パーク(主席弁務官執務所と職員宿舎) (Map). Cartography by Google, Inc. Google, Inc. 2016年4月24日閲覧。)があり、日本との戦争に先立ってパシル・パンジャンの丘の稜線に沿って建設された要塞を偵察していた(サイレンバーグ 1988, pp. 75–76)。 - ^ 北緯1度18分02秒 東経103度51分18秒 / 北緯1.300568度 東経103.854926度(現在のブギス交差点付近)
- ^ サイレンバーグ (1988, pp. 69, 72–73)。新聞への投書で批判された(同)。
- ^ 「在シンガポール日本人#植民地時代」も参照
- ^ a b c d e f Bridges 1986, p. 25.
- ^ a b c Bridges 1986, p. 24.
- ^ 篠崎 (1981, pp. 171–172)。カッコ内は編者。
- ^ 本事件の捜査の際に、在シンガポール日本総領事館の建物内にあった篠崎護の部屋からは、篠崎が1936年12月20日に外務省の嘱託に任命された旨を記した文書が見つかっている(The Straits Times & 1940-10-27)。
- ^ 1936年に参謀本部の諜報将校・有末次は、ロンドンの駐在武官を終えて参謀本部に復帰する際、香港とシンガポールの軍事情報の収集に努めるよう主張した(Bridges 1986, p. 30、防衛研 著、防衛庁防衛研修所戦史室 編『大本営陸軍部』 1巻東京、1969年、416頁。からの引用として。)
- ^ The Straits Times & 1940-10-27。本事件の裁判における、在留外国人登録局の主任事務官の証言による。
- ^ 篠崎 (1981, pp. 171–172)では、同年8月から勤務したとしている。
- ^ 編集長に米・ポートランドから日系2世のウィリアム細川を迎えて創刊された(篠崎 1981, pp. 171–172)
- ^ a b 篠崎 1981, pp. 171–172.
- ^ 東方通信社が提供したニュースのほとんどは、日本の同盟通信社が配信したニュースだった(The Straits Times & 1940-08-05)
- ^ 裁判の予審の中で、日本領事館の1等書記官・斎藤いっせいは、当初「篠崎は日本からのラジオ放送を受信していたが、それは篠崎の任務ではなかった」と証言したが(The Straits Times & 1940-10-26)、後から「新聞、ラジオおよび雑誌のニュースを集め、それを総領事館に伝え、その一部を地元の日本語紙に送る」ことが篠崎の任務だった、と証言を補足・訂正した(The Straits Times & 1940-10-27、Bridges 1986, p. 28)
- ^ また当時、日本総領事館の副領事が民族工作に関連する情報収集を行っており、篠崎は『南洋商報』の新聞記者・丁某と、李宗仁の下で旅団長を務めていたと自称していた黄達三の2人から、領事館でシンガポール華人社会の動静について情報提供を受けていた(篠崎 1981, pp. 173–176)。
- ^ Bridges (1986, p. 26)。1940年10月31日、11月21日付"Singapore Herald"からの引用として。篠崎の事件の際、永山は、豊田総領事の秘書官と称していた(同)。
- ^ 篠崎 (1976, pp. 3, 7)。同書によると、篠崎は英海峡植民地警察の取り調べの際に、永山は「南方事情の調査に来た外務省の嘱託」と説明していた。
- ^ 北緯1度18分37秒 東経103度50分09秒 / 北緯1.3101449度 東経103.835778度
- ^ 北緯1度18分28秒 東経103度53分39秒 / 北緯1.307870度 東経103.894111度
- ^ a b c d e f g h The Straits Times & 1940-11-20c.
- ^ a b c The Straits Times & 1940-09-25.
- ^ 北緯1度18分12秒 東経103度50分54秒 / 北緯1.303382度 東経103.848227度。
- ^ サイレンバーグ (1988, pp. 78–79)は、当時、日本総領事館の職員はウィルキー路にあるソフィア・アパートという建物のすぐ裏の大きなバンガローに入っており、この建物からは周辺一帯を海岸まで見渡すことができた、としている。
- ^ a b c d The Straits Times & 1940-11-22a.
- ^ a b The Straits Times & 1940-11-01.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q The Straits Times & 1940-10-26.
- ^ Bridges (1986, p. 25)。同書では、刑事は篠崎とガードナーがしばしば面会しているのを目撃した、としている。
- ^ a b c d e Bridges (1986, p. 25)。Shinozaki, Mamoru (1975). Syonan - My Story : the Japanese occupation of Singapore. Singapore: Asia Pacific Press. pp. 1-2および英国公文書館の外務省文書からの引用として。
- ^ The Straits Times & 1940-11-21a、The Straits Times & 1940-10-30。ブレーズは逮捕しようとしていることを篠崎に悟られないように同日午前9時30分に別の場所で篠崎と会う約束をしたが、篠崎は同日午前9時に特高科へ出頭した(同)。
- ^ 北緯1度16分44秒 東経103度50分56秒 / 北緯1.278837度 東経103.848796度
- ^ 篠崎1976, pp. 3–4)。同書では、9月14日夜にブレーズから電話があり、翌15日朝の出頭を求められた、としている。篠崎は電話を受けた夜に書類を焼いて身辺を整理し、山川某にも日記や関係書類の焼却を依頼した(同)。
- ^ a b c Bridges (1986, p. 26)。1940年11月1日付"Singapore Herald"からの引用として。
- ^ 南洋商報 & 1940-09-23.
- ^ a b c The Straits Times & 1940-09-22.
- ^ a b 南洋商報 & 1940-09-22.
- ^ a b c d e f g h i j k The Straits Times & 1940-11-21a.
- ^ The Straits Times & 1940-09-23.
- ^ 読売新聞 & 1940-09-24は同日付で同月21日に日本人が一斉に逮捕され、同月23日に篠崎・山川が引き続き拘留されることになり、他4名が釈放されたことを伝えた。
- ^ Bridges (1986, p. 26)。Robertson, Eric (1979). "The Japanese File". Hongkong. pp. 112-113からの引用として。
- ^ 篠崎 1976, p. 7.
- ^ The Straits Times & 1940-10-07.
- ^ a b 朝日新聞 & 1940-10-09.
- ^ 治安第2判事・コンラッド・オーダム Conrad Oldham(The Straits Times & 1940-10-23)。原告は公訴人・E.N.グリフィス・ジョーンズ(Griffith Jones)(同)
- ^ a b 南洋商報 & 1940-10-24a.
- ^ The Straits Times & 1940-10-23。篠崎の弁護人は日本総領事館から依頼を受けたD.K.ウォルタース(Walters)(同)。
- ^ (1)英国砲兵隊の准尉から軍事情報の提供を受けたこと、(2)英軍の動向に関する3つの報告書を入手したこと、(3)英国空軍の伍長に英軍の飛行機の種類を同定させようとしたこと、の3点(The Straits Times & 1940-10-24)。詳細は後出。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q The Straits Times & 1940-10-24.
- ^ a b c d e f g The Straits Times & 1940-10-23.
- ^ 日本の新聞では、読売新聞 & 1940-10-30および朝日新聞 & 1940-10-30が10月28・29日に篠崎の第1回公判が行われたことと論告の要旨を伝えた。読売新聞 & 1940-10-30は「サクラ・ホテルの関係者が篠崎とシンガポール側陸軍軍人との会談の目撃者として証言した」と伝えているが、証言内容などの詳細は報じていない。
- ^ The Straits Times & 1940-11-19。判事:ペドロウ Pedlow 裁判官(同)。
- ^ The Straits Times & 1940-11-08.
- ^ 11月4日に弁護側から巡回裁判の際に陪審員を全員ヨーロッパ人にしてほしいとの申し入れがあり、申請が承認されて同日から全員ヨーロッパ人の候補の中から選任した陪審員による裁判が行われることになった(The Straits Times & 1940-11-19,The Straits Times & 1940-11-08およびThe Straits Times & 1940-11-05)
- ^ Bridges (1986, pp. 27–28)。1940年11月20日付"Singapore Herald"からの引用として。
- ^ a b c d e f g h i j k l The Straits Times & 1940-11-19.
- ^ 予審で、ガードナーは「クリスマス直前の21日頃」と証言したが(The Straits Times & 1940-10-24)、Y.W.C.A.の総務部長・ポーライン・プライス(Pauline Price)夫人がダンスパーティの日付を同月16日と証言し(The Straits Times & 1940-10-27)、本審では16日に訂正された(The Straits Times & 1940-11-19)
- ^ singapore infopedia (2016年). “Adelphi Hotel”. NATIONAL Library Board Singapore. 2016年7月7日閲覧。
- ^ 予審でガードナーは、英国空軍の軍人や日本人が主な出席者だったと証言したが(The Straits Times & 1940-10-24)、プライス夫人は、軍人向けに開いたわけではなく、また参加者の国籍は問われなかった、と証言した(The Straits Times & 1940-10-27)。篠崎の回想録では、Y.W.C.A.のパーティはシンガポールに派遣されて来た英軍将兵歓迎のために開かれていた、とされている(篠崎 1976, p. 142)。
- ^ a b c d e f g The Straits Times & 1940-10-25.
- ^ ガードナーは「ホテルの経営者は怖くなったようだった」と証言し、中村は「世界情勢に鑑みて」そうした、と証言した(The Straits Times & 1940-10-24)
- ^ 当時、ウィルキー・テラス(北緯1度18分09秒 東経103度50分56秒 / 北緯1.302452度 東経103.848828度)を上がっていくと、日本総領事館の敷地へ出ることができた(The Straits Times & 1940-10-25)
- ^ ガードナーが提供した情報の一部は、軍事機密に属するとして非公開裁判の中で証言がなされた(The Straits Times & 1940-11-20c、The Straits Times & 1940-11-19)。Bridges (1986, pp. 28–29)によると、シンガポール警察当局が把握していた、篠崎がガードナーから得ようとした情報の中には、上記のほかに、イル・ド・フランス号の積荷は何か、シンガポールでのクイーン・メアリー号の配置、マラヤの英陸軍とブレン・キャリアについて、地域的な軍事演習の実施について、空母イーグルの現在位置、マラヤの戦闘機の種類などが含まれていた。
- ^ 北緯1度18分32秒 東経103度54分43秒 / 北緯1.308958度 東経103.911958度
- ^ ガードナーはこの項目について予審では証言したが(The Straits Times & 1940-10-24)、巡回裁判では弁護側から容疑に直接関係しないとして異議の申し立てがあり、証言が省略された(The Straits Times & 1940-11-20c)。
- ^ 篠崎 (1976, p. 5)では、永山は領事文書用の金庫の中にある海軍の暗号書のことを心配しており、その金庫の鍵を水洗便所に投げ込んだ、としているが、手紙の件には言及がない。
- ^ 篠崎の事務所の捜索では、他にも、篠崎が軍人と会う予定を記したカレンダー・パッドや、主要施設に鉛筆で丸印の付されたシンガポールの地図、戦闘機の写真集、地元紙の切り抜き、サクラホテルから篠崎に宛てた領収書などが見つかった(The Straits Times & 1940-10-27)
- ^ 山本 (2000, p. 20)の豊田薫の調書によると、柏原は日本総領事館の職員で、『シンガポール日日新聞』の編集長とされている。
- ^ The Straits Times & 1940-11-02ではアルバート街(Google Maps – アルバート街 (Map). Cartography by Google, Inc. Google, Inc. 2016年6月4日閲覧。)にあったとされ、南洋商報 & 1940-11-02ではアラブ街150号にあったとされている
- ^ a b c d e The Straits Times & 1940-11-02.
- ^ The Straits Times & 1940-10-20.
- ^ The Straits Times & 1940-10-19.
- ^ a b The Straits Times & 1940-10-22.
- ^ 柏原は10月21日に500ドルの保釈金を支払い、釈放された(The Straits Times & 1940-10-22)
- ^ Bridges (1986, p. 26)では、1940年10月21日、11月2日付"Malay Mail"からの引用として、禁固3ヵ月と国外追放処分、としている。
- ^ a b The Straits Times & 1940-10-30.
- ^ 篠崎 (1976, p. 142)では、Y.W.C.A.の幹事だった、としている
- ^ 篠崎 1976, p. 142.
- ^ The Straits Times & 1940-11-21c.
- ^ a b c d e f g h The Straits Times & 1940-10-27.
- ^ 篠崎 (1976, p. 142)。同書では、シンガポールの防衛部隊の増援を知る方法としてパーティに参加した、としている。
- ^ Bridges (1986, pp. 25, 28)。篠崎は戦後のインタビューでは、英軍の重砲の設置場所を知るために英国の軍人との接触を試みた、と説明している(Bridges 1986, p. 28。Shinozaki 1973, p. 4からの引用として。)
- ^ The Straits Times & 1940-11-20b.
- ^ クロンプトンはシドンズ夫人をY.W.C.A.の関係者だと考えていたが(The Straits Times & 1940-10-26)、Y.W.C.A.の総務部長・プライス夫人は、Y.W.C.A.とは関係のない人物だと証言した(The Straits Times & 1940-11-20b、The Straits Times & 1940-10-27)。
- ^ The Straits Times & 1940-10-27。
- ^ The Straits Times & 1940-11-22a、The Straits Times & 1940-10-26。Y.W.C.A.のパーティの開催日について、予審で英国空軍の伍長らは2月末か3月初に行われたと証言し、Y.W.C.A.のプライス夫人の「閏年のパーティだった」との証言を受けて、巡回裁判では2月29日とされた(同、The Straits Times & 1940-10-27)。
- ^ a b c d The Straits Times & 1940-11-23b.
- ^ 篠崎 (1976, p. 8)では、ウォルタース弁護士が「拘留した砲兵下士官の証言だけで判決するのは不当」と抗弁した、としている。
- ^ 検察側は、ガードナーと頻繁に面会し金銭を渡していたことへの反証は難しいため、弁護側が情報の有用性について反論するだろう、とみて陪審員に注意を促していた(The Straits Times & 1940-11-23b)
- ^ 宣誓を受けていない証言は、公判で反対尋問を受けることがないため、宣誓を受けた証言よりも価値が低いとされる(The Straits Times & 1940-11-23b)
- ^ Bridges (1986, p. 28)。1940年11月21日付"Singapore Herald"からの引用として。
- ^ The Straits Times & 1940-11-23c.
- ^ 3つ目の容疑については無罪となった(The Straits Times & 1940-11-23b)。
- ^ Bridges (1986, p. 28)。1940年11月23日付"Malay Mail"からの引用として。同書では、3年半の禁固刑を言い渡された、としている。
- ^ 読売新聞 & 1940-11-24は、禁錮3年罰金3,000ドルの判決言い渡しを受け、上告検討中、としている。
- ^ 自身が勤務していた兵器工場への進入路を写真撮影したことが違反行為とされた(The Straits Times & 1940-11-23b)。
- ^ a b The Straits Times & 1940-12-12.
- ^ The Straits Times & 1940-12-01.
- ^ 朝日新聞 & 1940-12-01は、(編注:同年11月22日に)「国防法違反」により「禁錮3年」の有罪判決が下ったこととあわせて、同年11月29日に無罪を主張し高等法院に上告した、と伝えている。
- ^ 最高裁判長代理・A.K. ベケット・テレル(a'Beckett Terrell)裁判官、ポイザー(Poyser)裁判官およびゴードン・スミス裁判官
- ^ a b The Straits Times & 1940-12-13.
- ^ 篠崎 (1976, p. 8)では、篠崎は、上告して再調査が行われ累を及ぼしてはまずいと考えてウォルタース弁護士からの上告の勧告を断り、一審で判決が確定したとしているが、Bridges (1986, p. 28)は篠崎の自伝の記述と新聞報道が食い違っていることを指摘している。
- ^ 編注:ナチス・ドイツなどのこと。
- ^ 篠崎 (1976, p. 8)では、一審の裁判長が「欧州における現在の新事態に即応するとせば、被告は当然銃殺に処せらるべきであろう」と述べ、「戦争状態であれば銃殺」という意味で、自身に強い印象を与えた、としている。
- ^ a b Bridges 1986, p. 28.
- ^ 篠崎 1976, p. 10.
- ^ The Straits Times & 1941-02-06.
- ^ The Straits Times & 1941-01-16.
- ^ The Straits Times & 1941-01-15b.
- ^ The Straits Times & 1941-01-15a.
- ^ The Straits Times & 1941-01-14.
- ^ The Straits Times & 1941-01-13.
- ^ The Straits Times & 1941-01-09.
- ^ The Straits Times & 1940-09-25。篠崎の部屋は、日本総領事館の建物の中の、日本総領事館の事務所と同じ階にあった(同)。なお同紙は、捜索には豊田自身が立ち会ったこと、領事文書は捜査対象になっていなかったことを指摘している。
- ^ a b c d e f g Bridges (1986, pp. 26–27)。英国公文書館の外務省文書からの引用として。
- ^ ベトナムでのフランス軍との武力衝突を受けて、新たな問題が生じることを避けたものとみられていた(同)。
- ^ 読売新聞 & 1940-09-24.
- ^ 朝日新聞 & 1940-10-30.
- ^ 読売新聞 & 1940-10-30.
- ^ 読売新聞 & 1940-11-24.
- ^ 朝日新聞 & 1940-12-01.
- ^ 朝日新聞 & 1940-12-13.
- ^ 篠崎 (1976, pp. 1–3)によると、3人は9月10日の到着後、
初日にカトンの海岸線の守備陣地、セレタ飛行場、(ニースンからマンダイ路、)ジュロン北方に建設中だったテンガー飛行場、西海岸ポナビスタの峠から海岸線の守備陣地を視察。
翌日にはジョホール水道を渡ってメルシン、エンダオへ向かい、メルシン街道沿いの守備陣地、メルシン・エンダオの水際の状況を視察、クルワンに出てマラッカ泊。
翌々日ムアル、バトゥパハを視察して夕方シンガポールに帰着。夕食後プリンセップ街(北緯1度18分04秒 東経103度51分03秒 / 北緯1.301106度 東経103.850755度)の長期滞在者・山川老大尉(山川かめのすけ)を訪問した。 - ^ Bridges (1986, p. 29)。Shinozaki (1975, pp. 4–5)からの引用として。
- ^ 篠崎1976, p. 1.
- ^ 編注:9月8日の誤記の可能性がある
- ^ 英国の戦いでドイツの上陸作戦の阻止に成功した後も、英国が日本との戦争に利用できる資源は限られており、ウィンストン・チャーチル首相は日本との開戦に踏み切ることに消極的なままだったが、1940年10月の初めに英国は強硬路線を取ることを決め、英内閣はビルマの援蒋ルートを再開することで合意し、ラブ・バトラーと英国議会外務事務局の下に省庁横断会議を設立することを承認していた(Bridges 1986, p. 32)。このような状況下で、英政府は外交関係を悪化させることを承知した上で篠崎を訴追した(Bridges 1986, p. 32)。
- ^ Bridges 1986, p. 31.
- ^ The Straits Times & 1940-08-05.
- ^ The Examiner & 1940-10-04.
- ^ The Straits Times & 1940-10-01.
- ^ 同書では、逮捕されて尋問を受けた日本人が、ロビンソン路の犯罪調査局本部の窓から飛び降り自殺をするということもあった、としている。
- ^ 篠崎 1981, pp. 173–174.
- ^ 篠崎 1981, pp. 181–182.
- ^ 篠崎 1976, pp. 26–31.
- ^ 篠崎 (1976, pp. 27–30)によると、1942年2月12日にチャンギー刑務所の囚人が解放された際、篠崎は武装して掠奪をしようとする囚人達に向かって、「皆よく聞け!俺は日本人スパイの親玉で、英国官憲に捕まっていたシノザキだ!知ってるか!?オランポテ(白人)は逃げた。今から俺が此処のカッパラ(親分、大将の意)だぞ!俺の命令は日本軍の命令だぞ、いいか」と(英語で、日本人のマレー語通訳を介して)呼びかけて彼等を統率し、希望する囚人を解放した後、残留者に炊事、衛生、伝令等の役を割り振って同月16日の日本軍による解放を待った、という。なおシンガポール陥落直後の1942年2月18日付『朝日新聞』(篠崎 & 1942-02-18)には篠崎の手記が掲載されており(篠崎 1976, pp. 4–5)、戦前に収監前後の回想録が篠崎, 護「チャンギー監獄脱出記」『改造』第24巻9・10、改造社、1942年。として発表されている(田中 1976, p. 239)。
- ^ 篠崎 1976, p. 36.
- ^ 篠崎 1976, pp. 34–70.
- ^ 篠崎 1976, pp. 71–86.
- ^ a b 篠崎 1976, pp. 87–88.
- 1 篠崎スパイ事件とは
- 2 篠崎スパイ事件の概要
- 3 背景
- 4 事件
- 5 補遺
- 6 参考文献
- 篠崎スパイ事件のページへのリンク