第13代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/20 06:30 UTC 版)
本名は輝員(てるかず)(作銘)愎斎1873(明治6年9月12日没) 1824(文政7歳次甲申年2月)聴松山(ちょうしょうざん)浄国寺の第18代住職から「鰐口」を贈られる。 1844年(天保15年)新潟に呼ばれ午砲を鋳る。また大砲を鋳る見積書を出す。1848年(嘉永6年)に苗字帯刀合印を許された。1849年(嘉永7年)には藩主の内藤信思から江戸に召され、大砲二門を鋳建てた。1866年(慶応2年)禁裏へ炉籠を納める。1867年(慶応3年)、越後鋳物師の惣代として禁裏に参内している。 『新潟奉行の 御庭番 川村修就(ながたか)の 日記では、「蝦夷地へ異国船が滞留と報告がきたため「村上藩在住の鋳物師辻村輝員を新潟に呼び図面を見せて、一貫目玉と五百貫目玉を鋳造するように申し渡した。辻村らは翌々日にその図面による積書を提出した。』 桂岩寺の雲版を鋳造した。1826年(文政9年)村上住辻村又五郎輝員作有志寄附と刻鋳されていた。
※この「第13代」の解説は、「山本又五郎」の解説の一部です。
「第13代」を含む「山本又五郎」の記事については、「山本又五郎」の概要を参照ください。
- 第13代のページへのリンク