竹刀打込稽古の導入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 08:03 UTC 版)
武蔵岩槻藩(永井氏)の江戸詰の家臣であった山田光徳は、木刀による試合で怪我を負って剣術修行を中断していたが、直心正統流の高橋重冶の道場で防具を用いて怪我を防止した稽古をしているのを見て、高橋重冶に入門した。天和3年(1683年)、直心正統流の皆伝を授かった山田光徳は、流名を「直心影流」と改めた。 他の剣術流派が組太刀(形稽古)をしている中、当流の原流派である直心正統流の頃から、いち早く竹刀稽古を導入しており、山田光徳から第8代の長沼国郷の時期にかけて、竹刀と防具を改良した。第9代・長沼綱郷(長沼国郷の養子)が上野沼田藩に仕官したことから、長沼家は代々、沼田藩で直心影流を指南した。また、長沼国郷の晩年に生まれた実子の長沼徳郷は、長沼綱郷より直心影流を学び、主家の永井氏の美濃国加納への転封により加納藩に直心影流が伝えられた。
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