競進社の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 15:14 UTC 版)
1877年(明治10年)4月養蚕改良競進組を結成し、全国に教授員を派遣して養蚕法を広めた。 1878年(明治11年)神奈川県主催聯合共進会で蚕種改良の必要性を指摘され、1879年(明治13年)3月前橋の製糸家勝山宗三郎から蚕卵紙を譲り受け、1881年(明治14年)3月埼玉県庁に提出する際、「白玉新撰」と命名した。 1881年(明治14年)以来松方デフレで繭・生糸の価格が暴落し、秩父事件が勃発する中、1884年(明治17年)競進組を競進社に改組し、新宿村の自宅に本社、児玉町に出張事務所、11月同町に養蚕伝習所を設立し、養蚕法を伝授し、養蚕業の振興に務めた。 1889年(明治22年)3月農商務省の命でパリ万国博覧会とイタリア・フランスの製糸業を視察するため大里忠一郎・田中甚平・三吉米熊・高島得三と洋行し、リヨン・ローマ・パリ・ロンドンを巡り、パドヴァ養蚕実験局(イタリア語版)ではエンリコ・ヴェルソン(英語版)に蚕種保護法を学び、10月18日帰郷した。 1892年(明治25年)洋行中に見た倉庫を参考に、埼玉県知事吉田清英の援助、農商務課長山中福永の周旋、辰野金吾の設計で本庄町に蚕種貯蔵庫を建設し、日本蚕種貯蔵会社を設立し、他の業者から蚕種保存を請け負った。1894年(明治27年)イタリアの蚕室をモデルに養蚕伝習所に競進社模範蚕室を建設した。
※この「競進社の設立」の解説は、「木村九蔵」の解説の一部です。
「競進社の設立」を含む「木村九蔵」の記事については、「木村九蔵」の概要を参照ください。
- 競進社の設立のページへのリンク