私は生けとし生けるもの全てである
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 23:35 UTC 版)
「なぜ私は私なのか」の記事における「私は生けとし生けるもの全てである」の解説
詳細は「輪廻転生」を参照 心理学渡辺恒夫は、遍在転生観(へんざいてんしょうかん)という立場を主張している。渡辺は、永井均の独在論(図中a)における<私>の特別性を解消するため、私は生けとし生けるもの全てである、という遍在転生観を主張した(図中c)。渡辺自身は科学者であるが、こうした形而上学的立場の主張に自身のキャリアに基づくような科学的な根拠づけは一切ない、と明言している。つまりこれは科学的な主張ではなく、あくまで形而上学的な主張である。渡辺は理論が持つ主たる意義として主に次の二点を挙げている。まず一点目として、永井均が取るような立場において現れる<私>の神秘、これを遍在転生観であれば破ることが出来るということ。つまり遍在転生観ならば永井の<私>を脱神秘化するが可能であるとしている。次に二点目として、こうした形而上学は倫理的に意味があるとしている。つまりどんなに自分が嫌いな相手であっても、または自分にとってどうでもいいと思える人物であったとしても、あれは昔の私かもしれない、または、やがて私はあいつになる、と思っているならば、そうした人物に対してもより深い共感の念を持って接することが可能になるだろう、としている。渡辺のこの考え方は一見荒唐無稽にも思える。しかし素粒子物理学の領域において一電子仮説のような捉え方が可能であることを踏まえると、完全に荒唐無稽なものとも言い切れないだろう、と渡辺は言う。 図を見ると分かるように、渡辺の考え(図中c)は、物理的な時間を前後して転生というものが行われている。この問題を解決するために、(それにそって転生の体験が起きるような)新たなもうひとつの時間軸の導入が必要だろう、と渡辺はしている。渡辺の遍在転生観に対し、哲学者の三浦俊彦は、こうした新しい時間軸の導入などを行なっても、その新しい時間軸上の中でなぜ今この位置にいるのか、これが結局説明されないのであるから当初の問題は何も解決されていない、つまり解答として成立していない、と批判している。
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