皇帝と元老院との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 05:16 UTC 版)
「ハドリアヌス」の記事における「皇帝と元老院との関係」の解説
ハドリアヌスはその治世を通じ、国内外において目覚しい成果を挙げた。しかし、元老院にはハドリアヌスの政策をよしとしない者がいたことも事実である。 まず、治世当初の執政官経験者4名の殺害はこれを反映している。ハドリアヌスは、防衛に必要な兵力や維持費等の負担増に耐え切れないと判断して、メソポタミア、アッシリア、アルメニアから撤退するという現実路線に切り換えた。ところが、当時の元老院には実際に戦場へ赴いて領土拡大に貢献した者もおり、ハドリアヌスの対外政策には批判的な者がいた。元老院の一部には、激しく反発するものもいたのであろう。これに対してハドリアヌス擁護派は、反対派の大物4人を粛清するという強硬策に訴えた。 治世末期の後継者選びの際にも、意見の不一致から義兄弟ユリウス・ウルスス・セルウィアヌスとその孫ペダニウス・フスクスを自殺に追いこんだ。そのため治世末期、皇帝と元老院の関係は緊張していた。しかし、いくつかのグループとの関係が緊張していたにすぎないと見る向きもある。 皇帝の崩御後、元老院では、ハドリアヌスを神格化し国家神の列の加えることに反対する動きがあった。神格化されないと、ドミティアヌス帝のように記憶の抹殺が行われ、ハドリアヌスの統治に関する行為はすべて抹消されることになる。後継者のアントニヌス帝は涙を流しながら必死に元老院の説得に努め、ハドリアヌス神格化について元老院の同意を得ることができた。このため、アントニヌスはアントニヌス・ピウス(敬虔なアントニヌス)と呼ばれることになった。 ローマ皇帝の業績を称える碑が多いローマにおいて、五賢帝の一人とされるハドリアヌスの巡幸を称える碑は見つかっていない。
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