王式の軍紀粛正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 08:08 UTC 版)
夏4月、王式は杮口(しこう)に到着した。このとき義成軍の規律が乱れていたので指揮官を斬ろうとしたが、大分たってからやっと許した。以来、軍は何の抵抗もなしに西陵に到着した。降伏を乞うた裘甫の使者に王式は「甫が両手を後ろ手に縛ってやってくれば、お前を殺すのは見逃してやろう」と答えた。乙未、王式は越州に入った。丙申、鄭祗徳を城外遠くまで見送り、軍紀の粛正にとりかかった。 賊の別将(配下ではなく同盟者と考えられている)の洪師簡と許会能が部下を引き連れて降伏してくると、王式はこれまで通り部下を率いたまま先鋒隊として用いた。彼らが軍功を立てると、さっそく上奏して授官を申請した。 これまでは賊の間諜が越州城内に入り込むと、軍の役人は匿って食物を与えていた。越州城が陥落した際の無事を求めるため、賊と通じていたのである。王式はひそかに調べ上げて、賊を一人残らず捕らえて斬った。また将校や官吏の中でとくに悪質なものを処刑し、門の取締りを厳重にし、証明書の無い者には出入りを禁じたため、賊は官軍の動向がつかめなくなっていった。 王式は各県に命じ倉庫を開いて貧民に施しを行わせた。兵糧は必要、と反対するものがいたが、王式はとり合わなかった。 官軍には騎兵が少ないので、王式は吐蕃(チベット族)や回鶻(ウイグル族)で征服されて江淮地方に移住させられた人々を厚くもてなして登用した。彼らを全て騎兵に仕立て、騎兵隊長石宗本に統率された。 ある人がのろしを設けて賊の位置や兵力を探るようにしたらと具申したが、王式は笑ってとり合わず、臆病な兵卒を選んで元気な馬に乗せ、わずかの武器を持たせて騎兵斥候とした。
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