獨逸学協会学校
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独逸学協会学校(どいつがくきょうかいがっこう、旧字体:獨逸󠄁學協會學校󠄁)は、ドイツの文化と学問を学ぶ目的の下、獨逸学協会によって1883年(明治16年)10月に東京府麹町区五番町13番地[注釈 1](現:東京都千代田区一番町25[注釈 2])に創立された私立の旧制学校である。中等教育課程の「普通科」と、一時期は高等教育課程である「専修科」を併設していた。また、現在の獨協中学校・高等学校の前身である。
注釈
- ^ 旧:陸軍外国人教師館空き家。
- ^ 跡地は半蔵門ミュージアムと、全国町村議員会館の東側を除いた、残りのおよそ3分の2にあたる敷地となっている。
- ^ 旧:北白川宮邸。
- ^ 跡地には1903年(明治36年)に西小川尋常小学校(のちの西神田小学校)が開校し、さらに戦後の1946年(昭和21年)には西神田幼稚園が併設された。小学校開校から、まもなく90周年を迎えようとする1992年(平成4年)頃には千代田区により公共施設適正配置構想が推進され、1993年(平成5年)3月をもって小学校・幼稚園は長い歴史に幕を下ろした。1999年(平成11年)、新たに集合住宅や保育園、児童センターなどが入る複合施設として西神田コスモス館に生まれ変わり、現在に至る。
- ^ 協会学校は創立以来、官立学校並みの異例の特典に浴していた。このことは、政府要人との密接な人的関係と相まって、協会学校に準官立的な性格を付与し、他の私立学校とは際立った対照をみせていた。一方ではそれは学校関係者の誇りでもあったろうが、他方では主体的な経営努力を怠ることにもなったようだ。1890年(明治23年)に第一回帝国議会が開かれたとき、この補助金が全廃され、学校当局は大きな打撃を受けることになったのである[1]。
- ^ 「専修科十年の概略史」を書いた中村健一郎は、より厳しく経営陣の怠慢を非難している。そのまま引用する。 「然しかかる光栄の歴史ある学校も有志の士奮起すれば、存続必ずしも不可能ではなかつたに違ひない。然るに元これを設立した人々が皆政府の顕職に在る人で、学校の経営は寧ろ片手間の、云はば内職仕事と云つてもよい位であるのが、かかる衰運に際してもあまり熱心に存続するの意志がなかつた。もし大学にも独法科が出来たし、自分達の懐抱する所も多少達せられたとし、又学校の将来を引受けたる人が、普通の教育家であつて、僅々中学の経営を以て満足したる等に起するものである[2][3]。
- ^ 帝国大学においては、法科大学が1886年(明治19年)に設立され、翌年には法律学科に独法科が設置された。ドイツ法学を踏まえた「法学士の養成」こそが、専修科の最大目標であったことからすれば、(この頃から)早くも専修科の存在意義が問われはじめたのである[4]。
- ^ 1892年(明治25年)4月に創刊された同窓会の機関誌、『校友会雑誌』の創刊号において、山脇玄は独逸学協会学校の将来について、婉曲な表現ながらも専修科切り捨ての宣言に他ならない言葉を述べている。 「是ヲ以テ、曩ニ独逸学協会学校ヲ創設スルニ当テヤ、此ニ視ル所アリ、専ラ普通科ヲ教授シテ、日本全国ニ堅牢ナル専修科ノ基礎ヲ造ルヲ以テ目的ト定メ、爾来着々其歩ヲ進メタリ。然ルニ、其後種々ナル原由ノ備ハルアリテ傍ラ専修科ヲ設ケ、当分法学ヲ教授スルコトトナレリ。之ニ由テ是ヲ観ルモ我学校ノ重ナル学科ハ普通科ニ在ルヘキヲ以テ、今後益々、此ニ力ヲ用ヰ、益々堅牢ナル専門学ノ基礎ヲ造ランコトヲ希望ニ堪ヘサルナリ。」 すなわち、独逸学協会学校の任務を一般的な基礎教育に限定し、専門教育は他の教育機関に委ねるべきことを示唆しているのである[5][6][7]。
- ^ 帝大の法科や他の私立法律学校の充実により、専修科における法学教育の存在意義が薄れてきたという事情のみならず、既に普通科から第一高等中学校を経て帝国大学の医科に進む進路が整備されたという事情が重なり、専修科は存在意義の大半を失った[8]。
- ^ 1888年(明治21年)年に第一回の卒業生を輩出した専修科は、1893年(明治26年)年には新規入学が停止され、1895年(明治28年)年の第8回の卒業生をもって、その短い歴史に幕を下ろした。卒業生の総数は発足からの10年間で、わずかに164名で終わった[9]。
- ^ 旧:長州閥の子爵、鳥尾小弥太陸軍中将の所有地。
出典
- ^ 堅田剛「独逸学協会学校-ある法律学校の歴史-」『獨協法学』第40号、獨協大学法学会、1995年3月、60-61頁
- ^ 独逸学協会学校評議員・中村健一郎「専修科十年の概略史」『独逸学協会学校五十年史』、独逸学協会学校同窓会、1933(昭和8)年10月、27頁以下
- ^ 堅田剛「独逸学協会学校-ある法律学校の歴史-」『獨協法学』第40号、獨協大学法学会、1995年3月、61頁
- ^ 堅田剛「独逸学協会学校-ある法律学校の歴史-」『獨協法学』第40号、獨協大学法学会、1995年3月、47頁
- ^ 山脇玄「祝詞 独逸学協会学校創設ノ目的」、『校友会雑誌』第1号、1892年
- ^ 『独協百年』第4号、独協学園百年史編纂委員会、1980年、161頁
- ^ 堅田剛「独逸学協会学校-ある法律学校の歴史-」『獨協法学』第40号、獨協大学法学会、1995年3月、59頁
- ^ 堅田剛「独逸学協会学校-ある法律学校の歴史-」『獨協法学』第40号、獨協大学法学会、1995年3月、59 - 60頁
- ^ 堅田剛「独逸学協会学校-ある法律学校の歴史-」『獨協法学』第40号、獨協大学法学会、1995年3月、60頁
- 1 獨逸学協会学校とは
- 2 獨逸学協会学校の概要
- 3 関連項目
獨逸学協会学校
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明治14年(1881年)、現在の獨協中学校・高等学校にあたる獨逸学協会学校の創立に参画した。2年後の開校にあたり初代校長に就任した。西は獨逸学協会学校開校式の演説において、「そもそも、学をなす道はまず志を立つるにあり」「志を立てて学問に従事すれば、これに次ぐものは勉強にあり」と述べている。
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