湯の花トンネル列車銃撃事件
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湯の花トンネル列車銃撃事件(いのはなトンネルれっしゃじゅうげきじけん)は、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月5日正午過ぎに東京都南多摩郡浅川町(現・八王子市裏高尾町)内の運輸省鉄道総局(国鉄。現・東日本旅客鉄道:JR東日本)中央本線、湯の花トンネル[1]でアメリカ軍のP-51戦闘機複数機が満員状態の列車に対して執拗な機銃掃射を加え、多数の死傷者が発生した事件である。列車襲撃事件としては国内最大規模であり、死者50名以上、負傷者130名以上を数えた[2]。
- ^ 猪ノ鼻山と呼ばれていた山に掘られた事から「いのはなトンネル」と呼ばれる。
- ^ 狙われた中央本線「湯の花トンネル」列車襲撃 9歳の乗客が見た景色「死体が積んであった」 襲撃後の戦闘機“新映像”も【news23】 TBS NEWS DIG Powered by JNN、2023.8.16
- ^ a b 『八王子の空襲と戦災の記録(総説)』八王子市教育委員会、1985年。
- ^ 「遅延は鉄道員の恥」と、厳しく教育されていた。
- ^ 『八王子空襲』八王子市教育委員会、2005年。
- ^ 『中央本線湯の花トンネル 四一九列車銃撃空襲』(リーフレット)
- ^ a b “総務省|一般戦災死没者の追悼|いのはな慰霊碑、戦災死者供養塔”. 総務省. 2021年8月5日閲覧。
- ^ 機関車がトンネル内で停止するように列車を停止させた理由は、物資欠乏と度重なる空襲で機関車の稼働率が著しく低下する中、機関車の温存を考え、機関士が非常ブレーキをかけたためとされている。湯の花トンネルの長さを考えると列車全体をトンネル内に収めることができないため、トンネルを通過して反対側に出るより後部車両を犠牲にして機関車を守る方針をとったものと考えられる。現在では乗客軽視とも見られがちだが、戦時下に国の大切な機材を任されている職員にとっては、上の方針に従わざるを得ない事情もあった。しかしこれによってトンネルから出ていた車両が反復して機銃掃射に晒される結果となったため、犠牲者を増加させることとなった。また、一方では、停止の原因は、銃撃により架線が切断され送電が止まったためとの説もある(下記参考文献参照)。
- ^ 死者52名・負傷者133名(警視庁空襲災害一覧表『東京大空襲・戦災誌』三巻)、死者49名・重傷者120名・軽傷者800名(『国鉄の空襲被害記録』)、死者49名・負傷者約300名(『昭和20年浅川町事務報告』) 『八王子の空襲と戦災の記録(総説)』による
- ^ 事件に遭遇した元毎日新聞記者(森正蔵)が詳細な記録を日記(2014年に『挙国の体当たり』として公刊)に記していると、2007年8月1日付け毎日新聞が報じている。
- ^ 戦後70年 千の証言スペシャル 私の街も戦場だった TBSテレビ
- 1 湯の花トンネル列車銃撃事件とは
- 2 湯の花トンネル列車銃撃事件の概要
- 3 ドキュメンタリードラマ
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