法隆寺再建非再建論争とは? わかりやすく解説

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法隆寺再建非再建論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/10 17:49 UTC 版)

法隆寺再建非再建論争(ほうりゅうじ さいこん ひさいこん ろんそう)ないし法隆寺論争(ほうりゅうじろんそう)は、法隆寺が再建されたものか、そうでないかについての論争である。


注釈

  1. ^ とはいえ、村田治郎が論じるように、法隆寺が焼失しているという記述の存在は「古文献を読めば当然気づくこと」であり、「明治にいたるまで誰も知らなかったのではなくて、ただこれを問題として採り上げる人が少なかったまでだと言うべき」である[4]
  2. ^ いわゆる若草伽藍跡のことである。若草に心礎があることは、延享3年(1746年)に良訓が編纂した『古今一陽集』にすでにみえ、「高三尺余、広一丈余」と挿図つきで紹介されている[1]。明治期、この心礎は北畠邸に移されており、関野は1898年(明治31年)ごろこれを見ている。のち、これは住吉の久原邸に移された[22]
  3. ^ a b 「斑鳩寺被災之後、衆人不定寺地。故百済入師率衆人、令葛野蜂岡寺。令川内高井寺。百済聞師、円明師、下氷君雑物、三人合造三井寺[43]
  4. ^ 670年の火災を考慮しないとしても、法隆寺においては幾度かの大規模な火災が記録されている。延長3年(925年)には講堂および鐘楼が焼失し、講堂は正暦元年(990年)に、鐘楼は11世紀初頭ごろに再建された。承暦年間(1077年 - 1081年)には三経院および西室が焼失し、寛喜3年(1231年)にやや西へ離して再建された[1]。また、永享7年(1435年)には南大門が焼失し、同10年(1410年)に再建された[44]
  5. ^ 『考古界』は日本考古学会学会誌。1910年より『考古学雑誌』に改称[50]
  6. ^ 『日本書紀』には「(推古天皇)廿九年春二月己丑朔癸巳。半夜厩戸豐聰耳皇子命薨于斑鳩宮」とあるが[72]、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』や『中宮寺天寿国曼荼羅繍帳銘』といった直接史料には聖徳太子の没年が「推古天皇30年2月22日」とあり、後者が正しいと考えられている[73]。なお、『補闕記』はこれを正しく記録している[74]
  7. ^ a b 「右寺、斯奉為小治田宮御宇天皇御代歳次壬午上宮太子起居不安、于時太子願平復、即令男山背大兄王并由義王等始立此寺也、所以高橋朝臣預寺事者、膳三穂娘為太子妃矣、太子薨後、以起為檀越、今斯高橋朝臣等三穂娘之苗裔也、離于延長六年歳次戊子合参伯弐拾歲[75]
  8. ^ たとえば、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘には「鵤大寺」、『本記』なる現史料にもとづくと記述される『資財帳』には「伊加留我寺」、『日本書紀』推古14年・皇極2年・天智8年には「斑鳩寺」、『続日本紀』天平10年・『御物鵤寺倉印』・『補忘集』記載幡銘には「鵤寺」とある[80]
  9. ^ 福山は、1935年(昭和10年)の「法隆寺の金石文に関する二三の問題」において、このことについてさらに詳しく論じている。いわく、日本における伝統的な王号は「大王」であり、「天皇」号の信頼できる初出は天智天皇5年(666年)の『野中寺弥勒像台座銘』である。ゆえに薬師如来像背銘にあらわれる「天皇」の語や、「大王天皇」という無意味な同義語の繰り返しは極めて不審である。また、聖徳太子を「聖王」と呼んでいるのは明らかに太子死後しばらくしてからの薨号である。福山は、日本における本格的な薬師如来信仰が天武期であることを鑑みるに、薬師像の造立はそれ以降、『資財帳』が成立した747年以前であろうとしている[81]。それ以降の研究については法隆寺金堂薬師如来像光背銘#造像・刻字の年代も参照。
  10. ^ 「合蓋壱拾壱具 仏分肆具 一具紫 法分漆具 台具 紫者癸巳十月廿六日仁王会納賜飛鳥宮御宇天皇者[98]

出典

  1. ^ a b c 高田 1991.
  2. ^ a b 福山 1991.
  3. ^ a b 足立 1943, p. 3.
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  5. ^ 井上 1994, pp. 124–125.
  6. ^ 足立 1943, p. 19.
  7. ^ 井上 1994, pp. 126–127.
  8. ^ 足立 1943, p. 26.
  9. ^ a b 村田 1949, p. 20.
  10. ^ a b 井上 1994, p. 127.
  11. ^ 井上 1994, pp. 131–133.
  12. ^ 井上 1994, pp. 128–129.
  13. ^ 井上 1994, pp. 15–16.
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  15. ^ 村田 1949, p. 22.
  16. ^ 井上 1994, p. 136.
  17. ^ 村田 1949, p. 25-26.
  18. ^ 足立 1943, p. 33.
  19. ^ a b 村田 1949, pp. 23–24.
  20. ^ 足立 1943, p. 33-36.
  21. ^ 足立 1943, p. 29.
  22. ^ 足立 1943, p. 226.
  23. ^ 足立 1943, p. 36-38.
  24. ^ a b 村田 1949, pp. 27–29.
  25. ^ 村田 1949, pp. 28–29.
  26. ^ 足立 1943, pp. 40–44.
  27. ^ 村田 1949, pp. 30–32.
  28. ^ 村田 1949, pp. 36–38.
  29. ^ 足立 1943, pp. 44–78.
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  48. ^ 村田 1949, pp. 48–49.
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  50. ^ CiNii 雑誌 - 考古學雜誌”. 2023年12月16日閲覧。
  51. ^ 村田 1949, pp. 63–64.
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  72. ^  舍人親王 (中国語), 日本書紀/卷第廿二, ウィキソースより閲覧。 
  73. ^ 坂本 1986.
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  108. ^ 光谷 2001.
  109. ^ a b 大橋 2001, p. 89.
  110. ^ 箱崎和久 著「飛鳥時代様式」、都市史学会 編『日本都市史・建築史事典』丸善出版、2018年、56-57頁。ISBN 978-4-621-30246-0 





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