沙也可
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沙也可(さやか、1571年? - 1642年[1]または1643年[2])は、文禄・慶長の役の際、加藤清正の配下として朝鮮に渡ったが、投降して朝鮮軍に加わり、火縄銃の技術を伝えて日本軍と戦ったとされる武将。沙也加とも。現代朝鮮語発音ではサヤガとなる。朝鮮では金忠善(キム・チュンソン、ハングル表記:김충선)の名で知られ、字は善之、慕夏堂と号したという。
- ^ “【藤本欣也の韓国探訪】“降伏した倭人の里” 歴史の荒波にもまれた日本の武将、沙也可の子孫たち”. 産経ニュース. 産経新聞 (2016年8月27日). 2016年8月27日閲覧。[リンク切れ]
- ^ a b “降倭沙也可 〈1〉正体不明 謎の武将”. 読売新聞 (2004年4月3日). 2009年5月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年2月4日閲覧。
- ^ a b “降倭沙也可 〈1〉人物浮かばぬ姓名”. 読売新聞 (2004年4月10日). 2009年5月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年2月4日閲覧。
- ^ “降倭沙也可 〈3〉2武将が浮上”. 読売新聞 (2004年4月17日). 2009年5月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年2月4日閲覧。
- ^ “降倭沙也可 〈4〉朝鮮軍に投降?原田信種”. 読売新聞 (2004年5月1日). 2009年5月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年2月4日閲覧。
- ^ “降倭沙也可 〈5〉生き残りへ現実的な選択”. 読売新聞 (2004年5月8日). 2009年5月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年2月4日閲覧。
- ^ a b “沙也可こと金忠善将軍の顕彰碑、紀州東照宮に建立”. 聯合ニュース (2010年12月9日). 2013年5月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年7月18日閲覧。
- ^ 『本市代表団による韓国訪問の結果報告について』(プレスリリース)和歌山市、2012年5月17日。 オリジナルの2014年8月26日時点におけるアーカイブ 。2012年12月20日閲覧。
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