水崎基一
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水崎 基一(みずさき もといち、1871年11月10日(明治4年9月28日) - 1937年(昭和12年)11月29日)は、日本の経済学者、教育者。同志社大学経済学部教授を経て、浅野綜合中学校(現・浅野中学校・高等学校)初代校長。クリスチャン。なお、書、漢詩、短歌[1]の雅号は濃川[2]。
- ^ a b 石田吉貞「水崎先生の御歌」『故水崎基一先生 追悼』173-180頁
- ^ a b c 森中章光 1972, p. 21.
- ^ 地元の安原地区歴史研究会によると「したしたまち」
- ^ 櫻庭十蔵 「故水崎基一先生生誕の地を訪ねて」『故水崎基一先生 追悼』 181-187頁
- ^ 当時、松本新聞には自由民権運動のリーダー松沢求策や自由民権派教師上条螘司が論文を発表していた。明治12年には松沢求策が編集長になった。「松沢求策|安曇野市ゆかりの先人たち」、小松芳郎「29.上条あり司」 脚光 歴史を彩った郷土の人々
- ^ 少年時代、松本北深志では年少の児童が集って浄書講を作っていた。三輪好政「感謝と追憶」『故水崎基一先生 追悼』134頁、三輪好政は基一の弟で後に陸軍騎兵大佐になった。
- ^ 景山昇『静岡県における明治前期の中学校に関する史的考察』85-94頁
- ^ 1887年(明治20年)には渋江抽斎の嗣子渋江保が「九月十五日にまた静岡文武館の嘱託を受けて、英語を生徒に授け」ている。森鷗外『渋江抽斎』その百九、254-256頁
- ^ 景山昇『静岡県における明治前期の中学校に関する史的考察』93頁
- ^ 1871年(明治4年)、静岡学問所教授の時にS.スマイルズの『Self-Help』の翻訳『西国立志編』を刊行した、旧幕臣の中村正直は1874年(明治7年)にカナダ・メソジスト教会のジョージ・コクラン宣教師から洗礼を受けている。
- ^ Francis Alcot Cassidy(1853-1924) 1887年(明治20年)に静岡メソジスト教会とお雇い外国人教師として県立静岡中学校に招かれた。『静岡教会125年史』46頁
- ^ 1887年(明治20年)11月に平岩愃保牧師、藤波甚助らと共に静岡英和女学校を設立した。深町正勝『日本基督教団創立百周年を迎えて』4頁
- ^ 1887年(明治20年)に渋江抽斎の嗣子渋江保は静岡メソジスト教会の信徒で、文武館で学んだ藤波甚助が設立した、静岡英学校の教頭になった。キャシディ夫妻も同校の教師だった。森鴎外『渋江抽斎』その百九、254-256頁
- ^ 『新島研究』第73号 2頁
- ^ (森中章光 1972, p. 21)には1886年(明治19年)6月の聖日に15歳で小林光泰牧師から洗礼を受けたという記述があるが、小林牧師は1887年6月20日に静岡メソジスト教会に赴任している。『日本メソヂスト静岡教会六拾年史』52頁
- ^ 1886年(明治19年)経済新報社から刊行され、将来の日本は軍備ではなく、生産力を重んじ、平民主義を目指すべきだと論じた。
- ^ a b 『新島研究』第73号 2頁
- ^ 日記抄『故水崎基一先生 追悼』42頁、同118-119頁
- ^ 『新島研究』 第73号 4頁
- ^ 1887年(明治18年)には収容者が8万9千人となった。「北海道集治監の誕生と網走監獄」博物館 網走監獄
- ^ 山縣の訓示は「抑監獄ノ目的ハ懲戒ニアリ・・・」で始まっている。(室田保夫 2011, p. 2)
- ^ 室田保夫 2011, p. 1.
- ^ 片岡優子 2006, p. 99-100.
- ^ 「生江文庫目録が完成しました」 4-5頁
- ^ 清の全権大使李鴻章を狙撃して無期徒刑となった、山田風太郎『牢屋の坊ちゃん』のモデル小山豊太郎も収監されていた。『故水崎基一先生 追悼』119頁
- ^ 吉田松陰は1855年(安政2年)に野山獄で、かつて読んだ米国の獄制を参考に、読書、写字、学芸をはじめ、教育による善導等の監獄改良策を提案する『福堂策』を書いている。(「福堂策 上(野山雑著)全集第二巻 」吉田松陰の名文・手紙を読む 吉田松陰.com)
- ^ 日記抄『故水崎基一先生 追悼』42-43頁
- ^ 「留岡幸助-NPO法人」国際留学学生協会/向学新聞
- ^ 野口伐名「本多庸一の社会事業観」『弘前学院大学社会福祉学部研究紀要』第13号、弘前学院大学社会福祉学部、2013年3月、63-83頁、ISSN 1346-4655、NAID 120006464770。 p=65 より
- ^ 他に、大塚素、牧野虎次、有馬四郎助、山本徳尚、松尾音次郎、阿部政恒、村松浅四郎、生江孝之等。(室田保夫 2011, p. 3)
- ^ 片岡優子 2006, p. 105.
- ^ 室田保夫 2011, p. 2.
- ^ 「月形歴史物語」北海道月形町公式サイト参照
- ^ 監獄の最高責任者
- ^ 片岡優子 2006, p. 106.
- ^ 牧野虎次「青年時代の追憶」『故水崎基一先生 追悼』120頁では、牧野が水崎や同僚一同と袂を連ねて辞職したとの記述がある。
- ^ 「釧路集治監人物伝15」『広報しべちゃ』 No.667 2013.9 には水崎が11月13日に免職になったとの記述がある。
- ^ 明治24年に春採アイヌ学校の教師となって以来、生涯を春採アイヌ民族の教育と生活向上に捧げた。市立釧路図書館 永久保秀二郎関連資料
- ^ 『永久保秀二郎日誌』上巻 130頁
- ^ 後に三菱合資会社常務理事、三菱石油社長、三菱製鉄取締役会長等を歴任した。
- ^ 九転十起の男, p. 235.
- ^ (すぎむら・ふかし)後の駐伯公使でブラジル移民導入の端緒を開いた。「サンパウロ人文科学研究所」
- ^ 武装した土匪による抗日暴動に対し、日本側は無差別掃討を行い住民多数が殺害された。
- ^ a b c 「水崎基一から徳富蘇峰宛書簡」徳富蘇峰記念館所蔵
- ^ William Montague Hammet Kirkwood 駐日英国公使館の法律顧問から日本政府のお雇い外国人となった。グラバーとともにキリンビールの前身のジャパン・ブルワリーに出資し、日光中禅寺湖畔に別荘を建てた。「日本の大自然・19日光国立公園」毎日新聞社ーシリーズ日本の大自然
- ^ 『追悼 故水崎基一先生』年譜 3頁
- ^ 教會歴史ー濟南教會」 台灣基督長老教會濟南教會
- ^ a b 森中章光 1972, p. 22.
- ^ 『追悼集Ⅵ-同志社人物誌-』216頁
- ^ 夏目漱石は1900年(明治31年)5月から2年間、文部省から英語教育法研究のため、英国のUCLへの留学を命じられた。
- ^ 日記抄-英国留学時代-『故水崎基一先生 追悼』46-48頁
- ^ Haddington、エディンバラの東30キロほどにある小さな町で、エディンバラとロンドンを結ぶ交通の要衝
- ^ モスクワ-ノヴォシビルスク間、1897年(明治30年)にノヴォシビルスク駅の西のオビ川鉄橋が完成している
- ^ 水崎が日本人初の(鉄道による)西シベリア横断者との記述がある。『故水崎基一先生 追悼』158頁
- ^ 水崎の祖父の紋十郎は松本藩の江戸藩邸で松本出身の子弟を監督していたが、福島安正もその中の一人だった。同183頁
- ^ 『故水崎基一先生 追悼』 110頁
- ^ 農商務省地質調査所の分析技師補佐官だったが、1898年(明治31年)に浅野総一郎が農商務大臣の榎本武揚に懇願して浅野商店石油部に入社させた。(九転十起の男, p. 140-141)
- ^ 九転十起の男, p. 181.
- ^ 東洋汽船は300円だったが、同志社は100円(2015年の米の平均価格で換算すると、1円=3355円となり、現在の金額で約30万円~35万円)
- ^ 水崎は鹽野叙光に「或る場合には、知り乍ら掛引もしなければならない商売は、どうも、僕の性分に合はんもんから」と洩らしている。鹽野叙光「水崎先生を憶う」『故水崎基一先生 追悼』164頁
- ^ 新島は門下生に「わしが中途で倒れたら後を継ぐのは君達である、宜敷頼む」という遺言を残していた。『新島研究』第73号 8頁
- ^ a b 『新島研究』第73号 8頁
- ^ 2015年の金額に換算すると、約10億7千万円
- ^ 卒業目前に中途退学
- ^ 『新島襄 わが人生』291-292頁
- ^ 胃腸が虚弱の上、貧乏旅行だった募金集めの苦労の様子は「日記抄」『故水崎基一先生 追悼』48-49頁、鹽野叙光「水崎先生を憶ふ」同163頁、(森中章光 1972, p. 24-25)に記されている。
- ^ 1910年(明治43年)8月に営口在住の同志社の後輩で、東和公司(海運業)の経営者の三宅駿二から多額の寄付を贈られた。日記抄『故水崎基一先生 追悼』49頁、水崎著『綜合中学の実現』は故三宅駿二の墓前に捧げられている。『綜合中学の実現』の写真参照。
- ^ (はたの・ますね)西南学院、西南メモリアル・コラムNo.11-13、29参照
- ^ 日本基督教会牧師
- ^ 浅野恵二「同志社大学再興と水崎先生」『故水崎基一先生 追悼』84頁
- ^ 高遠出身で明治28年の第四回内国勧業博覧会で、出品した「二挺杼バッタン運転機」が賞賛された。「博覧会ー近代技術の展示場」より
- ^ 『故水崎基一先生 追悼』 124頁
- ^ 「象山先生遭難碑」京都市情報館
- ^ 同志社中学校在学中の、後に航空機設計技師になった、従弟の上條勉 『大空への道』36-37頁
- ^ 『故水崎基一先生 追悼』161頁
- ^ 『大空への道』37頁
- ^ 「うたのふるさと」椰子の実~民俗学的ロマンと詩情
- ^ 大正7年に社長から総長になった。
- ^ 同志社々史々料編纂所 『同志社九十年小史』 学校法人同志社、1965年、105-108頁
- ^ 『九転十起』304-305頁、『鐡と鋼』609頁
- ^ 水崎しげ「過ぎし日をかへりみて」『故水崎基一先生 追悼』128頁には「校友会報 1930年(昭和5年)12月号」を引用して、水崎からゲーリー・システムの学校について、浅野に伝えたとの記述がある。
- ^ インディアナ州、ミシガン湖畔にあり、浅野の友人で「安全第一」の標語を作った、USスチールの社長で鋼鉄王と呼ばれたエルバート・H・ゲーリー (Elbert Henry Gary) の名前に由来している。ゲーリーは1916年(大正5年)に来日し、渋沢栄一邸での午餐会には浅野も出席している。『大正クロニクル』世界文化社、54頁
- ^ a b c 綜合中学の実現, p. 49-81.
- ^ ゲーリー市の学校は同じ校舎で13年間学ぶことに関して、ワートの人間は徐々に発達するので、小学校、中学校と区別する制度はあまり良くないという意見に対して、水崎は異を唱えた。(水崎基一 1919, p. 613)
- ^ デューイは『明日の学校』で機会の平等が保証された民主主義社会の市民を育てるために、実際に仕事を経験することを通じて知識を学び、社会性を身に付ける実践教育を行っている米国各地の公立学校を紹介している。。
- ^ 水崎はデューイを我が師と呼び、頭脳だけを用いる偏知教育では完全な人とはならず、行為に依る教育が最も重要と記している。(綜合中学の実現, p. 44)
- ^ シカゴ大学に「実験学校」を設立して、教育理論の検証を行っていたデューイを理論的な支柱として、伝統的な学校のあり方に異議を唱え、人間の自発性を重視した、児童中心、経験主義の教育改革運動。小西一也「戦後学習指導要領の変遷と経験主義教育」サイエンスネット第11号 13頁
- ^ デューイ『明日の学校』第7章 地域社会に対する学校の関係 146-166頁、第10章 産業をとおしての教育 198-222頁
- ^ 出井善次『ゲーリーシステムの研究 : 大正期日本教育への導入と帰結』ブイツーソリューション,星雲社 (発売)、2020年、130-131頁。ISBN 9784434270949。 NCID BC01229413 。
- ^ 佐藤隆之 2013, p. 58.
- ^ 米国には英国の植民地時代にピューリタンが移住して開拓した歴史があり、労働を尊ぶ伝統があった。(水崎基一 1919, p. 614)
- ^ 学校と市の一部の印刷物も生徒が受け持った。
- ^ 米国人はピューリタンの養った、公共のために犠牲と奉仕の精神が強かった。(綜合中学の実現, p. 78頁)
- ^ 水崎基一 1919.
- ^ 「横浜市 鶴見区 鶴見の国際交流」横浜市広報
- ^ 綜合中学の実現, p. 71.
- ^ 『九転十起』305-306頁
- ^ 1919年の日本鐵鋼協会の論文誌「鐡と鋼」にも別の講演の講演録の記載がある(水崎基一 1919)。『故水崎基一先生 追悼』93頁には大正8年の春に神奈川県立工業高校で講演を拝聴したとの記述がある。
- ^ 2015年の金額で約33億6千万円
- ^ 『故水崎基一先生 追悼』104頁、『九転十起』305頁
- ^ 米国で買い求めたゲリー・スクールの無声映画のフィルムを、後に浅野綜合中学校の講堂で生徒達に見せて、水崎が弁士になり、学校の理想の一部はゲリー化することにあると、説明している。『故水崎基一先生 追悼』232頁
- ^ (綜合中学の実現, p. 82-83)、『綜合中学の実現』は昭和6年6月に草了し、「横浜貿易新報」に掲載された。
- ^ 技術・技能
- ^ 綜合中学の実現.
- ^ 大正12年3月に建設され、工場実習を課外必修とした。
- ^ 水崎は毎日のように京浜国道に立って、残暑の烈しい陽射しを浴びながら冷水を手桶で運び、焼け出されて風呂敷包み一つで避難して行く渇ける人々の喉に真清水の奉仕をした。鹽野叙光「水崎先生を憶ふ」『故水崎基一先生 追悼』160頁
- ^ 『故水崎基一先生 追悼』157頁、『新島研究』第73号 16頁
- ^ 昭和9年12月に混凝土専修学校を兼任
- ^ 関東大震災後、多くの朝鮮人が虐殺された事件に対して、朝鮮人保護のために設立された組織で、朝鮮人労働者が多く住んでいた神奈川県には1925年2月に設立され、住宅、賃金問題等の改善を図った。
- ^ 『新島研究』第73号 16頁
- ^ Service(奉仕)やPatience(忍耐)、Humanity(人道)等の重要な言葉や格言は英語で教え、水崎が同志社で受けた人格主義教育を実践した。「校友の追悼文」『故水崎先生 追悼』232、261頁、『新島研究』第73号 16頁
- ^ 「在校生の追悼文」『故水崎基一先生 追悼』
- ^ 水崎は聖書のパウロによる「コリント人へ第一の手紙 13章4~8 愛は寛忍にして慈悲あり・・・」を引用して、我が国に愛の学校を建てたいと願ったと記している。(綜合中学の実現, p. 37-41)
- ^ 浅野を知る - 浅野中学校・浅野高等学校
- ^ 建学の精神と新島襄(同志社墓地の案内)
- ^ 牧野虎次『故水崎先生 追悼』119頁
- ^ 本井康博「31 水崎基一」『同志社山脈』62頁
- ^ 「校友、在校生の追悼」『故水崎基一先生』
- ^ 石田吉貞「水崎先生の御歌」『故水崎基一先生 追悼』174-175頁
- ^ 水崎が常に口にした句で、「いそしみ励め教への道」を年を取っていて、身体をこわすといけないので、一茶の蝸牛の句(かたつぶりそろそろ登れ富士の山)に似せて直したと生徒に語っていた。「在校生の追悼集」『故水崎基一先生 追悼』289頁
- ^ 『故水崎基一先生 追悼』 7頁
- ^ 『新島研究』 第73号 17頁
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