武蔵国府跡
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座標: 北緯35度40分8.4秒 東経139度28分47.5秒 / 北緯35.669000度 東経139.479861度
- ^ 文化遺産オンライン 武蔵国府跡。
- ^ 『国史跡 武蔵国府跡 -国衙地区-』府中市文化スポーツ部ふるさと文化財課 2016年(平成28年)6月発行。
- ^ 『府中の古墳』府中市文化スポーツ部ふるさと文化財課 2016年(平成28年)3月発行。
- ^ a b c d 武蔵国衙跡の近年の調査成果-武蔵国衙中枢区画を中心として-より。『掘り出された府中の遺跡2014』展示解説参照。
- ^ 府中市 国史跡武蔵国府跡。
- ^ a b 朝日新聞DIGITAL 「古代の官庁街」国府の調査 活発に。
- ^ 府中観光協会 武蔵国府跡。
- ^ 日本史大戦略 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察 律令国家の武蔵国における統治拠点・武蔵国府跡。
- ^ 府中市 「府中市遺跡地図」。
- ^ 『武蔵国衙跡』府中市教育委員会 — 府中市遺跡調査会 府中市埋蔵文化財調査報告第43集<BN01407483><書誌ID(NCID) BA89831059>。
- ^ 木下良、「国府跡研究の諸問題」 『人文地理』 1969年 21巻 4号 p.370-405, doi:10.4200/jjhg1948.21.370, 人文地理学会。
- ^ OHOKA 武蔵国府跡(府中市)探訪レポート。
- ^ 考古 府中市郷土の森博物館、「飛鳥時代の終末~奈良時代初頭頃のもの。今のところ都内では最古の瓦で「多磨寺」は都内最古の寺院」。
- ^ 『国史跡 武蔵国府跡 -国司館地区-』府中市文化スポーツ部ふるさと文化財課 2016年(平成28年)6月発行。
- ^ 府中市郷土の森博物館運営グループ『徳川御殿@府中』府中市郷土の森博物館、2018年1月27日、86頁。
- ^ 東京都府中市教育委員会 編『国史跡 武蔵国府跡(国司館地区) 第1期保存整備事業報告』東京都府中市教育委員会、2019-3、14頁。
- ^ 府中崖線(ハケ)の上にある。
- ^ 『新編武蔵風土記稿』巻ノ92多磨郡ノ4 「府中宿 本町 旧跡 御殿跡」「妙光院の西方にあり、東北は平地につづき、西南は三丈ばかりの高崖にして眺望よし、その下は水田なり、廣さおよそ百歩許の丘皐なり、此地は太古当国の国造住し旧蹟なり」(NDLJP:763988/80)。
- ^ 『武蔵名勝図会』「抑々この地に御殿御造営の初めは、小田原落城後豊臣太閤より関八州の地を参らせしより、神君御坐城の地を卜し給いて江城に御定めあり、近国并に近郷の工匠に命じ給いて江城御修理の砌、府中、川越に畋猟(でんりょう)の設けをなして旅館を造営すべし、府中は古えより府庁の地と兼ねて聞召されければ、その旧地へ営むべき旨の台命あり。その頃太閤奥州下向ありしかば、帰陣の前に造畢すべしとて、近隣近里の大匠へ御下知ありて、不日にして御殿造畢すと云」。
- ^ 府中市史談会7月講座「府中御殿について」。
- ^ 家康の府中御殿と江戸入りの頃。
- ^ 慶長15年(1610年)10月16日に滞在。
- ^ 家康の鷹狩りを再現「府中市の武蔵国府跡御殿地地区で」 2012.11.24[リンク切れ]。
- ^ 秀吉を迎えた家康府中御殿 家康は、将軍即位後も鷹狩や鮎漁の際に、頻繁に府中御殿に滞在。
- ^ 2010年5月15日、武蔵国府関連遺跡現場説明会資料。
- ^ 武蔵国府跡に包括。
- ^ 江口桂ほか『考古学ジャーナル 2014年1月号』ニューサイエンス社、2014年1月30日、6頁。
- ^ “府中市郷⼟の森博物館だより al museo No.122” (PDF) (2017年12月20日). 2022年4月17日閲覧。
- ^ 府中市立郷土館 編『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』府中市教育委員会、1985年11月30日、23頁。
- ^ ふちゅう 市議会便り 221号。
- ^ a b c d 東京都府中市教育委員会『国史跡 武蔵野国府跡(国司舘地区)第1期保存整備事業報告』東京都府中市教育委員会、2019-3、96頁。
- ^ 「奈良期の建物1/10 府中・国司館と家康御殿史跡広場」『東京新聞』2018年11月25日(2018年11月30日閲覧)。
- 1 武蔵国府跡とは
- 2 武蔵国府跡の概要
- 3 国司館地区
- 4 脚注
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