武蔵国司
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武蔵国司(むさしこくし)は、武蔵国の国司。武蔵は延喜式の定める大国(たいごく)であるため、守(1名)・介(1名)・掾(大・少、各1名)・目(大・少、各1名)の他に司生(3名)など9名前後を置いた。但し、宝亀6年(775年)には少目2員と増員している。[1]。養老律令の官位令が定める大国の官位相当は守が従五位上、大介が正六位下、大掾が正七位下、少掾が従七位上、大目が従八位上、少目が従八位下である。10世紀末には武蔵国府が衰亡し、令制における国司の実質は廃れたと推定される。
- ^ 『続日本紀』、宝亀6年(775年)3月2日 (旧暦)の条
- ^ 僧・恵亮は深大寺(現在の東京都調布市)を再興した人物。
- ^ 当時、関東地方には荷役運送を生業とした在地有力層とみられる「蹴馬之党」と呼ばれる賊徒が横行し官物を奪い国衙に抵抗していたという(『類聚三代格』)。
- ^ 府中市の発掘調査により、武蔵国府跡から、国司の存在を示す「大館」・「大目舘」・「目」・「守」銘(墨書)のある土器片が出土している。
- ^ 武芝は武蔵判官代であったとされる。
- ^ この頃の国守の勢威を示すものとして、武蔵ではかつて将門追捕時の押領使だった武蔵守・平公雅が浅草寺の伽藍を再興したとされる(「六所の社壇」『六所宮勧請』)
- ^ 藤原行実は康和5年2月に武蔵守に任ぜられた(『本朝世紀』)が同年8月に死去したので代わって源顕俊が武蔵守となった(『中右記』)。→参考文献の1、178頁。
- ^ 秩父氏惣領家はのちに河越氏を称している。
- ^ 日本史史料研究会編『将軍・執権・連署 鎌倉幕府権力を考える』(吉川弘文館、2018年)P133
- ^ 『大日本史』「国郡司表」では延喜17年4月 任、→参考文献の3、219頁
- ^ 菅原輔正の子。小手指北野天神社項目参照
- ^ 『大日本史』「国郡司表」では1256年〈長元元年〉1月 重任)→参考文献の3、220頁
- ^ 『大日本史』「国郡司表」では1229年〈大治4年〉12月 任)→参考文献の3、220頁
- ^ 『大日本史』「国郡司表」では1184年〈寿永3年〉2月 戦死)→参考文献の3、221頁
- 1 武蔵国司とは
- 2 武蔵国司の概要
- 3 武家官位としての武蔵守
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