松平張忠
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松平 張忠(まつだいら はるただ)は、戦国時代の武士。通称は右京亮、助十郎[1]。松平宗家4代(安城松平家初代)松平親忠の子。
- ^ 『寛永諸家系図伝』によれば親忠の八男。通称も同譜による。
- ^ 平野明夫『三河松平一族』(新人物往来社、2002年)の「3 清康期の松平家」257 - 259頁において、この奉加帳の「松平右京亮」の朱書傍注に「親盛」とあるが、平野明夫は張忠が正しいと結論付けている。この奉加帳に於いて「松平右京亮」は銭千匹(10貫文)を寄進しており、桜井の松平随身斎(親房)・同松平与一信定と共に宗家の松平道閲(長親)・信忠の2千匹に次いでいる。
- ^ 『新編 岡崎市史6 史料編古代中世』 岡崎市、1983年、936頁
- ^ 『新編 岡崎市史6 史料編古代中世』 岡崎市、1983年、939頁
- ^ 『日本歴史地名大系 23 - 愛知県の地名』(平凡社、1981年)吉良町「上矢田桂岩寺」の項
- ^ 『新編 岡崎市史6 史料編古代中世』 岡崎市、1983年、1140 - 1141頁 「三十九、都筑右京進宛松平元康判物写」および「四十、都筑右京進宛酒井正家副状写」(「符牒余録」・巻第三十六)。
- ^ 平野明夫『三河松平一族』(新人物往来社、2002年)153頁で、平野明夫は、張忠より宛行われたものを元康が都筑右京進に安堵したものとして、都筑右京進を張忠の被官であるとしている。
- ^ 同寺伝によれば、同寺5代住職・洞順上人の時である、延徳2年(1490年)2月に対織田信秀との井田の合戦で傷を負った張忠を家臣で寺津の住人朝岡甚八郎が背負って自邸に運び入れ介抱したがその甲斐なく死去したのち同寺に葬ったものという。 同寺伝中の「井田の合戦」は親忠在世時の「井田野合戦」(「三州八代記古伝集」では明応2年(1493年))を指すとも考えられるが、当時の対戦相手は衣城の中条氏の勢力であり織田氏ではない(平野明夫『三河松平一族』新人物往来社、 2002年、「明応の井田野合戦」134 - 139頁)。また延徳2年の死去年月日に関しては前掲の張忠寄進状の発給年月日よりも以前となり、両者の附合がせず関連性は不明(下記外部リンク参照)。なお、織田信秀軍との「井田野合戦」は宗家第7代松平清康死没直後の天文4年(1535年)12月12日に行われている(平野明夫『三河松平一族』 新人物往来社、 2002年、「森山崩れ後」265 - 266頁)。
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