東京帝国大学人類学教室
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1919年に鳥居の勧めで東京帝国大学理学部人類学科選科に進学。この時、「旧制高等学校から大学に進学する」という当時の常道から外れた進学をしたため、家族、特に父との関係は悪くなっていった。選科では、形質人類学に興味を持ち、東京人類学会に入会している。考古学的な調査では、1921年に鳥居が主導して行なわれた堀之内貝塚の発掘調査や、一年後輩の八幡一郎、宇佐美定憲とともに松戸方面へ採集旅行に赴き上本郷貝塚を発見し、翌1922年、大里雄吉とともにX地点を発掘調査した。1922年3月、清男は人類学科選科を修了した。この頃清男は、ヒトの遺伝を専攻しようと考え、東京帝国大学人類学教室と自宅を往復しつつ、人類学と先史学を研究した。そして1923年、初の研究論文である「諏訪郡住民の人類学I―大正十一年度諏訪郡壮丁の人類学的研究(諏訪郡住民の人類学)」『信濃教育』第440号(平沼大三郎と共著)を発表した。またこの頃1922年、清男は志願して1年間入営するが、大半を衛戍病院で過ごして除隊している。
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