最高司法裁判所判事と州知事選挙への出馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/06 23:18 UTC 版)
「マーカス・モートン」の記事における「最高司法裁判所判事と州知事選挙への出馬」の解説
1823年、モートンはマサチューセッツ州知事評議員に選ばれ、翌年にはマサチューセッツ州副知事に選出されて、民主共和党員知事のウィリアム・ユースティスの下で仕えた。1825年2月、ユースティスが在職中に死去すると、数か月後に州知事選挙が行われるまで、モートンが知事代行を務めた。1824年の選挙からは、州内の政治勢力として連邦党を事実上排除しており、元連邦党員と裕福な民主共和党員が協力して国民共和党と呼ばれることになる党を結成することになった(後のホイッグ党の前身)。モートンはこの動きに同意できず(国民共和党を「貴族的」と言った)、その代わりにジャクソン風の民主主義を好み、1825年の選挙では州知事に立候補することを拒んだ。しかし、副知事には再度立候補して当選することになり、民主共和党と連邦党の連衡で候補指名され当選した州知事リーヴァイ・リンカーン・ジュニアの下に仕えた。モートンはホイッグのエリート主義と呼んだものに満足せず(1830年にはリンカーンのことを「金の貴族主義の道具」であると非難した)、副知事を辞職した。リンカーンは直ぐにモートンをマサチューセッツ州最高司法裁判所陪席判事に指名した。モートンはその職を1840年まで保持することになった。
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