最後の計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 11:35 UTC 版)
「アントニオ・カノーヴァ」の記事における「最後の計画」の解説
カノーヴァは巨大な「宗教」の彫像を構想した。そのひな型はイタリア中で絶賛され、大理石も入手し、後は、カノーヴァのノミがふるわれるのを待つだけだった。しかし、聖職者の反対にあって、この計画は頓挫した。しかし、カノーヴァは諦めず、生まれ故郷のポッサーニョに、その像や他の作品をおさめる神殿を建てることにした。その境内には、設立者、つまりカノーヴァの遺骨も安置するつもりだった。1819年、カノーヴァはポッサーニョに赴いた。まず神殿の礎石を置いた後、カノーヴァはローマに戻った。そして毎年秋になるたびにカノーヴァはポッサーニョを訪れては、職人たちを報酬とメダルとで励まして、建設の陣頭指揮にあたった。 しかし、建設には莫大な経費がかかった。資金が尽きかけたので、カノーヴァは老齢と病気をおして、仕事をしなければならなくなった。この時期(神殿の建設から死ぬまでの間)カノーヴァは数々の代表作を作った。『マルスとヴィーナス』(1815年 - 1822年)、ローマ教皇ピウス6世の巨大な像、『ピエタ』、『聖ヨハネ』、横臥した『マグダラのマリア』、などである。そして、カノーヴァ最後の作品となった、友人シコグナラ伯爵の巨大な胸像も作られた。 1822年5月、カノーヴァはナポリを訪問した。スペイン王フェルナンド7世の騎馬像のためのワックスの型を作るためだった。この旅はカノーヴァの健康をかなり害した。しかし、何とか持ち直し、ローマに戻った。その年の暮れにも、カノーヴァは神殿建設のため、ポッサーニョに行った。しかし、そこで病気がぶり返した。ヴェネツィアまで来て、そこでカノーヴァは息絶えた。65歳だった。カノーヴァの病気は、幼い頃からの彫刻道具を使い続けたことによる、肋骨の窪みのせいだった。1822年10月25日、盛大な葬儀が営まれ、遺体はポッサーニョの神殿に埋葬された。しかし心臓だけは、ヴェネツィアのサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂の大理石のピラミッドの中に収められた。このピラミッドは、元々はティツィアーノ廟のためにカノーヴァ自身がデザインしたものだった。
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