文化人としての政則
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/21 10:10 UTC 版)
政則自らが猿楽に秀でており、その舞に人々は感嘆するほどであったと伝わる(『蔭凉軒日録』)。そのため政則は能や猿楽を奨励するなど一流の文化人として名を馳せるが、猿楽師を家臣にしようとして家中での反感を買ったこともあった。 また大名にしては珍しく刀工としても一流で、名工・長船宗光に師事したと言われ、後世に幾つかの名刀を残している。そのほとんどが家臣に与えられたものである。政則は幕府の要職である侍所所司を勤めていたため、武家の故実に通じる必要性があった。政則は刀工として非常に秀でていたが、その刀剣の大半を家臣に与えていることから恩賞を意図した家臣・領国統制の一環として利用した説も唱えられている。 他にも和歌や連歌に秀でており、それが将軍の足利義政から寵愛を受ける一因になるなど当時としては高い素養と芸術センスを兼ね備えた一代の教養人であったが、逆に武将としては脆弱でもあり、戦国時代初期に領国支配で苦慮する一因にもなった。
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