後漢草創期の活躍
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「李通 (後漢初)」の記事における「後漢草創期の活躍」の解説
建武1年(25年)6月、劉秀が光武帝として即位すると、李通は光武帝に召しだされて皇宮衛尉に任命された。翌建武2年(26年)、大司農に任命され、固始侯に封じられた。妻の劉伯姫も、寧平長公主に封じられている。光武帝が出征した際には、李通が首都の留守を担当し、その間にも民衆を安撫し、宮城を再建し、学校を修築した。 李通は軍事能力にも優れている。建武5年(29年)には、王梁に代わって前将軍に任命された。翌建武6年(30年)、李通は破奸将軍侯進、捕虜将軍王覇を率い、漢中に割拠していた延岑軍を撃破している。さらに、蜀(成家)の公孫述が延岑に援軍を差し向けてくると、李通はこれを西城(漢中郡)で撃破し、順陽(南陽郡)へ帰還して屯田を行った。 その後、李通は病身により引退を申し出たが、光武帝や大司徒侯覇らが慰留し、建武7年(31年)5月、李通は大司空に任命された。李通の体調は好転せず、また、劉秀の義弟という地位に在りながら、謙虚で慎み深く、権力欲に薄かったこともあり、李通は都度都度辞職を願い出た。しかし、李通の政務面での才腕はやはり貴重だったようで、その辞職がようやく認められたのは、建武12年(36年)7月のことである。以後の李通は、特進として朝請を奉じた。 建武18年(42年)、死去。恭侯を追贈された。子の李音が継承している。
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