広橋家
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広橋家(ひろはしけ、正体字:廣橋)は、藤原北家日野流の公家・華族だった家。公家としての家格は名家、華族としての爵位は伯爵[1]。
注釈
- ^ 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によれば幕末の広橋家領は、山城国愛宕郡千本廻りのうち31石1升9合、山城国愛宕郡花園村のうち18石8斗5升5合、山城国葛野郡西院領のうち6石4斗7升6合、山城国葛野郡西京村のうち2石3斗4升5合、山城国葛野郡下津林村のうち149石6斗2升、山城国葛野郡東梅津村のうち190石4斗、山城国葛野郡西梅津村のうち88石1斗5升、山城国葛野郡原村のうち64石3升1合、山城国葛野郡聚楽廻りのうち42石3斗6合8勺、山城国乙訓郡大原野村のうち200石、山城国紀伊郡吉祥院村のうち64石8斗であり、合計11村・858石2合8勺。
- ^ 江戸時代に烏丸家から分かれた日野流勘解由小路家とは別家。
- ^ 勘解由小路仲光の家名が広橋に替わったのと、日野重光の家名が裏松に替わったのは、ともに足利義満が北山殿として政治の中心となっていた頃のことであり、しかも堂上公家の家名のなかでそれが京都の伝統的な土地や街路や寺院の名称に由来しないのはこの広橋と裏松の2家のみである。これについて、歴史学者で日本の古代中世にかけての礼制・法制・政治の関係史が専門の桃崎有一郎は、北山第が政治の中心となっていた時期、言葉遊びを好んだ義満がその地にあった幅の広い橋や裏の松にちなんだ家名を考え、側近であり縁戚でもあったこの2名に通称として与えたのではないかと推測している。
- ^ 竹屋兼俊の長男
- ^ 町広光の子
- ^ 町広光の次男
- ^ 母は広橋綱光の女子
- ^ 冷泉為和の子
- ^ 豊岡和資の子
- ^ 竹屋光昭の次男
出典
広橋家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 04:46 UTC 版)
広橋三菜子(ひろはし みなこ) 演 - 星野真里 広橋の妻。 広橋菜花(ひろはし はな) 演 - 深尾あむ 広橋と三菜子の娘。
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